想い出は風の彼方に(63)

結局その小学校には2日間、お世話になった。沢田は平熱になり、食欲も回復して来た。その間、浩司は暇を持て余したが、身体が楽な分となっただけ食欲は旺盛になった。極度の疲労感は空腹感さえ消し去ってしまうのかもしれない。他の部員も浩司と同じ様に、この2日間はよく食べた。
この予期せぬ休みで、合宿のスケジュールは大幅に短縮せざるを得なかった。数年前に大学の山岳部で無理な行程から、死者を一人出している。
その教訓からスケジュールには余裕を持たせ、決して部員に過度な疲労を与えてはならないと、大学当局から訓辞を幾度となく聞かされていた。
「部活も大いに結構だが、君達は医師を目指している人達なんだから、そこの所をよく弁えて行動して下さい」
とは、学長の言葉であった。
そんな事もあって、今回の春合宿は随分と緩やかな日程となってしまった。その結果、浩司が大学に入って最も楽な合宿となった。
4月3日には合宿を終えて東京に帰った。久しぶりに浩司の顔を見た母親は、
「相変わらず汚ないね、何処の乞食かと間違えてしまうよ。ともかく風呂に入って、着替えをしてちょうだい」
母親に言われるまでもなく、浩司も先ずは風呂に入って、ゆっくりと寛ぎたかった。風呂から出ると、母親が浩司の好きな食事を山ほどテーブルの上に並べていた。未だ5時半と、夕食の時間には少し早かったが浩司は物も言わず夢中で食べた。すき焼きの肉だけで500gはあったが、一人で瞬く間に食べてしまった。冷蔵庫から勝手にビールまで持ち出して、ぐいぐいと飲んでいた。刺身の盛り合わせも、アッと言う間に平らげてしまった。母親は呆れて、ただ笑顔で見ていた。
「いやぁ食った、食った」
浩司は満足そうであった。食べるだけ食べると、後は睡魔が強烈に襲って来た。
「お母さん、どうもご馳走さまでした。食べた後で直ぐに寝るのも行儀悪いが、もう眠くて仕方がない。先に寝かせてもらうよ」
そう言うなり、浩司は2階の自分の寝室に戻ってしまった。しばらくすると、浩司のイビキが聞こえて来た。まだ7時過ぎである。
8時頃、綾子から電話が入った。母親は浩司が死んだ様に寝ていると話す。彼女はがっかりして、
「私から電話があった事を伝えて頂けますか。それと出来たら明日、少し会って話がしたいともお伝え下さい」
「綾子ちゃん、ご免なさいね。あなたからの電話は必ずお伝えするわ。でも、今は梃子(てこ)でも動きそうにないのよ。すき焼きの肉を一人で500gも食べてしまったの、呆れるでしょう?」
「500gもですか?」
「そうなのよ、主人と私の分まで食べてしまったのよ」
「そうなんですか、それは困りましたね」
と言いつつも、電話の向こうでは綾子の笑う声が聞こえた。
「それで仕方がないから、今から主人と私は寿司でも注文する事にしたのよ」
「合宿でよほど疲れていたのですね」
そう言って、綾子は浩司の肩を持った。
次回に続く
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