想い出は風の彼方に(67)

だから浩司が見学に行った精神病院だけが、特別に見すぼらしかった訳ではない。ただ彼の期待や想像と大きく掛け離れていたに過ぎない。友人の案内で先ずは医局の先生方の何人かに浩司は紹介された。
「同じ大学の篠木です。彼は精神科医を目指して医学部に入って来たのです。
どうしても、うちの病院を一度見学したいと頼むので連れて来ました」
副院長である友人の叔父が、先ず浩司に質問をした。
「篠木君とか言ったね、君は何故精神科医に成りたいと思ったの?」
「はい、それは高校時代にフロイトの精神分析入門を読んで、彼に憧れたからです」
「成る程、多感な高校時代だ。そう云う憧れは、よく理解出来るな。それで、フロイトのどんな所に感銘を受けたの?」
「『錯誤行為』、『夢分析』、「神経症総論」などに高校時代の僕はある種のカルチャーショックを受けたのです」
「成る程ね、しかしフロイトと同時代のユングについては、どう考えているの?」
副院長は浩司を試すかの様な質問をした。
「同時代と言っても、ユングはフロイトより19才も若いですよね。それに始めのうちは師弟関係に近かったですね。さらに『青(あお)は藍(あい)より出(い)でて藍より青し』の故事にもあります様に、フロイト理論をさらに進化させた感じがするのですが…」
副院長は少し驚いた顔をして、
「篠木君は、よく勉強しているね。私と見解の相違は多少あるものの、学生の君がそこまでの知識を持っているのには感心したよ。全部独学なの?」
「はい、ただ書物の受け売りですが…」
浩司は、やや謙遜気味に答えた。
「いや、書物の受け売りにしても精神科医に成りたいと云うだけの事はあるね!」
「いえ、実際の事は何も分かっていませんから…」
「まあそれは、これから学んで行く所だから…今から何でも知っているんでは大学に来た意味はないじゃあないの?」
「仰る通りです。その為に今日は色々と見学をさせて下さい」
「しかし、現実の医療現場では保険診療の範囲内で行なわれるものだから、精神分析とか夢分析とかの多大な時間を要する診療行為を実施する事は極めて稀だし、今は世界的にも流行(はや)らなくなっているんだ…」
「それでは、どんな事をなさるのですか?」
「何と言っても治療法の根本は、薬物療法で次に作業療法なんだが…精神科の治療法もフロイト以降、かなり変転を繰り返しているんだよ」
「そうなんですか?」
「フロイトやユングの時代は心理分析を中心に治療法を模索していたと言えるが、一時は神経外科が流行した時代もあったんだ」
浩司は首を傾(かし)げて、
「神経外科、脳外科ではなく?」
と、尋ねた。
「そう、脳外科ではなく神経外科なんだ…」
「どう云う意味ですか、済みませんが不勉強で僕には理解出来ないのですが!」
「君はロボトミーを知っているかい」
「ロボトミーって何ですか?」
次回に続く
関連記事

コメント