想い出は風の彼方に(71)

「浩司、ご飯は食べないの!」
1階から母の声が聞こえて来る。返事をするのも鬱陶(うっとお)しかった。さらに母の声が響いた。
「浩司、どうしたの。ご飯が冷めてしまうわよ」
その言葉を無視する訳にも行かず、
「身体の調子が良くないから、このまま寝かせてよ」
とだけ、答えた。
事実、食欲は全くなかった。ともかく寝たかった。寝て何もかも忘れたかった。自分の立脚点が突然に失われてしまったのだ。自分の心のバランスを取り戻す為には、自己の原点と思われたものをリセットするしかない。それには眠る事だ。
頭から布団を被って目を閉じた。それでも今日一日の事が次から次へと思い出され、なかなか眠りにはつけなかった。今は行なわれていないとはいえ、ロボトミーの事と言い、そして現場を目の当たりにした電気ショック療法と言い、人間の心の問題を真正面から捉えようとはしていない精神医学と云う学問は、一体何を目指しているのか?
果てしなき自問自答が浩司の脳裏から離れなかった。
悶々たる疑念を抱きながらも、浩司は何時しか眠りに落ちて行った。健全な若さの持つ力には、どの様な苦境にあっても深い眠りにつけると云う特質がある。
朝6時には目が覚めた。猛烈な空腹感を覚える。母が洗面所で顔を洗っている気配がした。浩司は母のそばに近づき
「お母さん、お腹がすいたよ!」
と、子供じみた催促をする。一人っ子なので、母親も浩司には甘い。
「はい、はい、ちょっと待っててね。身体の調子はどうだい。昨晩は何も食べなかったから心配になっていたけど、その分では大丈夫そうね。昨晩の余り物でよかったら直ぐに温め直すけど…」
「それで良いよ、ともかく早く何か食べさせてよ」
「じゃあ居間でテレビでも見ていて、直ぐに出来るから」
母親は急ぎ台所に行き、浩司の食事の準備をした。昨晩殆んど手付かずのカレーライスが出て来た。大皿に盛られたカレーライスを浩司は物も言わず2杯のお代わりをした。その間にポタージュと野菜炒めが出されたが、これも平らげてしまった。
「それだけ食欲があれば身体の具合も良さそうね!」
そう言って、母親は彼に笑顔を向けた。そんな母親に向かって突然に、
「お母さん、僕は精神科に行くのは止めにしたよ」
と、言い出した。
「何だい、藪から棒に…」
「お母さんにも話しておいた様に、昨日は友達のお父さんが経営する精神病院に見学に行って来たんだ」
母親は頷いて、
「そう言えば、そんな話しだったね。
そこで何か嫌な事があったのかい?」
「別に…病院の先生方は親切だったし色々と病気の説明も詳しく教えて頂いて、とても勉強になったよ」
「それじゃあ何が不満で、昨晩は食事もしないで不貞腐れた様に寝てしまったの?」
「何も不貞腐れてなんかいないよ。ただ僕が理想を抱いていた精神医学と現実の医療の現場の違いに、僕の心が揺れ動いただけだよ」
「どんな風にだい?」
「一言では語れないさ…ともかく大学に行って来るよ」
「未だ夏休みだろう」
「でも大学病院の図書館に夏休みは無いだろう。病院自体に夏休みなんかある訳はないからね」
そう言って、浩司は大学に出掛けた。
次回に続く
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