想い出は風の彼方に(76)

奇妙な関係の生活が1年半ほど続いていた。百合子の母親は、彼女にその闖入者を「お父さん」と呼ぶ事を幾度となく強要したが、彼女はどうしても「お父さん」とは呼べなかった。
「あの、ちょっと出かけて来ます」
という様な言葉が、精一杯だった。
それは、百合子が中学3年の秋だった。
高校受験を目前にして、学校での補習授業を受け帰りが少し遅くなった。家に入ると、男が一人でビールを飲みながらテレビを見ていた。百合子は何も言わず、2階の自分の部屋に上がり制服を脱いでいた。そこに男が突然に入って来た。
「何で、ただ今…の一言も声をかけないのだ?」
と、妙な絡み方をして来た。百合子は急な侵入に驚き、
「今、着替えているんだから出ていってよ!」
と、反発した。
「何だと、小娘のくせに生意気な…!」
男は怒気まじりに百合子に近づいて来た。そんな問答の結果、彼女は男から暴行を加えられてしまった。
そして家出、登校拒否、非行への道、シンナー中毒と、彼女の転落が始まったのである。
こう云った深い傷を持った少女を、どの様にしたら救えるのか、浩司は言い知れぬ闇の中に立たされた。精神科領域の薬物療法だけで治せるものなのか?
そんな単純な話ではあるまい。それが証拠に彼女は入院を繰り返しているのだ。精神科の指導医に浩司は尋ねた。
「下山百合子さんの様な患者さんには、どんな治療方針があるのですか?」
「先ずはシンナー中毒の禁断症状が取れるまで待つしかないだろうな」
「その禁断症状は何日ぐらいで取れるものですか?」
「それは中毒期間によっても、かなり違うんだが、彼女の場合2年以上はシンナーを吸い続けているし、他の病院も含め3回も入退院を繰り返しているから、禁断症状は1ヶ月ぐらいで取れたとしても、そこから先が問題だな」
そう言って指導医は、溜め息をついた。じゃあ何の為の入院なのだと、思いながら浩司はさらに質問をした。
「シンナー中毒って、どんな症状なんですか?」
「そうだな、何人かの患者さんに聞いた所によると、酔っ払ったような感覚とシャキッと頭が冴え渡るような感覚をストロボの点滅のように交互に繰り返す、と云う話が多かったかな。覚醒剤や麻薬に比べ手に入りやすいのも流行を促している理由だろう」
「薬物依存性は強いのですか?」
「アルコールやタバコよりは依存性が強い事は確かだな」
そう事もなげに、指導医は答えた。
「シンナーの何が、そんなに良いのですか?」
「まあ、俺も自分で吸っていた訳ではないから明確には答えづらいんだが、現実逃避としては最適なものらしいのだ。
精神安定剤代わりにシンナーが必要になるのだろう。睡眠不足が続いても頭が冴え渡って、特に何もなくても張り詰めた糸のような緊張感が続いて、その昂揚感(こうようかん)は阿片中毒に近いものみたいだと、文献的には記載されている」
浩司は絶望的な気分で、食い下がるかの如く質問を繰り返した。
「アルコールやタバコより依存性が高いのであれば、シンナー中毒から解放されるなんてことは不可能じゃないですか?」
次回に続く
 
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