想い出は風の彼方に(77)

浩司の指導医は落ち着いた口調で、彼の質問に応じた。
「確かに篠木君の言う通りだ。彼女がシンナー中毒から真に解放される為には、それに代わる何かが必要だろうね。彼女の精神的な支えになってくれる良きパートナーの様な人間が見つかれば、シンナーに頼らなくても生きていけるかもしれない。でも私達医師は、そこまでは立ち入れないのが現実だ」
「それじゃあ、どうするのですか?」
「まだ未成年者だから、禁断症状から離脱出来た時点で保護者を呼び、今後の生活指針などを話し合うしかないだろうな」
「そうですか、それが医療の限界なんですか…」
そう言って、諦めた顔で浩司は頷いた。
翌日の午後、精神科病棟のナースステーション前で、佐野と云う精神分裂病(現統合失調症)の患者が、大声で怒鳴っている。
「何故、俺の飯だけ何時も少ないのだ」
そう言って不満の声を大きくしている。担当のナースが諦め顔で、幾度となく説明している。
「佐野さんは、糖尿病があるから食事制限しているって前から言っているでしょう…!」
「そんな話は聞いた事もない。ともかく皆んなと同じ食事にしてくれ」
と、ナースに大声で迫っている。
「そんな事は、私には決められないの。自分で先生に言ってくれない」
そう言って、ナースは彼の前から離れようとしていた。そこに、指導医と私が姿を現した。
その医師は強い口調で、大声で騒いでいる患者さんを睨みつけ…
「佐野、お前は未だそんな事を言っているのか。糖尿病の話は何度もしているだろう。お前の身体を心配して食事制限をしているんだって」
「糖尿病でも何でも良いから、皆んなと同じ食事にしてくれよ」
医師への言い方は、哀願になっていた。
「そんなに強情を張るなら、電気を当てるぞ」
患者は、その医師の言葉で直ぐに大人しくなった。
「電気…!
電気は嫌だ、分かりましたよ。もう飯の事は言わないから、電気は許して下さい」
そう言って、患者は自分の病室に引き下がって行った。浩司は、そんな先輩医師の脅迫的な発言に驚いた。彼は恐る恐る聞いてみた。
「電気って、電気痙攣療法ETCの事ですか?」
「そうだよ、良く知っているね。何処かで見た事があるの…」
「はい、友人の父親が経営する精神病院で見学させてもらいました」
「そうなんだ、これは薬物療法で効果の無い精神病患者には有効なんだよ」
「そうなんですか、でも脳神経細胞にはどの様な作用をもたらすのですか?」
「それが作用機序は未だ充分に解明されてはいないのだよ。経験的な治療効果の蓄積かもしれない」
浩司は胸の中で考えた。
「そんな作用機序もはっきりしない電気ショックで、患者さんの治療に当たるなんて事が許されるのか?」
人間の心の闇を必死に解明しょうとする姿とは、かなり掛け離れた様な気がしてならない。一体、精神医学って何なんだ?
浩司の心の中では日々、現実の精神医学の実態が失望以外の何ものでもない印象を強くしていた。
次回に続く
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