霜月の夕暮れ(96)

3月26日の木曜も晴れだった。10時に岩惣をチェックアウトした。原爆ドームの近くに今夜のホテルは決めてある。3連泊の岩惣で伸枝の心のバランスは極めて良好となって来た。
広島のデパートに立ち寄り、洋服と下着を少し買い求める。これまでの服や下着は静子の家に送ってしまう。ちょっとした土産物も忘れず、手紙も共に添えた。
ダイワロイネットホテル広島に着いたのは2時半だった。部屋に荷物を置いて、すぐ原爆ドームに向かう。見学するのは初めてであったが、日本人として一度は訪れてみたいと思っていた。ホテルからは歩いて10分ちょっとの距離だ。
原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)で、元は広島県の様々な物産を展示するために広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれている。
資料館の中には被災者の遺品や写真が数多く陳列され、当時の被害の実態を悲惨に物語っていた。目の向けられない物も数多い。
なお、死没者数について、広島市では、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計されている。
被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと言われていたので14万人の死没者数と言うのは凄惨な数字である。
さらに被爆後5年以内には20万人が死没されたとも言われている。改めて核物質の破壊力を目の当たりにする思いである。
これだけの気の遠くなる様な災害を受けながらも、当時の日本陸軍将校の一部は「1億総玉砕」と叫んでいたと言うから、正に狂気の沙汰であろう。昭和天皇でさえ、それを阻止出来なかったと夫に聞かされた事がある。天皇と雖(いえど)暗殺の危機に脅かされ、真っ当な発言は出来なかったらしい。
そんな暗黒の時代から見ると、現在は何と平和な時代である事か。
結局、この世の在り方はどの様な時代に生まれ、どの様な境遇で育ち、良き配偶者に恵まれるのか?
それだけの事なのだろう。
鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』が思い出される。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
人間の一生とは、今更ながら、何なのかをつくづく考えてしまう。富も地位もプライドさえ取るに足りない小さな事ではないのか?
この原爆ドームを前にして伸枝は、改めて思い知らされた。
ホテルに戻って、母とこの2年間を振り返って自分は何かを見失っていたのではないかとの思いで、彼女は胸が一杯になって来た。
次回に続く

霜月の夕暮れ(95)

次の日、旅館での朝食を済ませ10時過ぎには外に出た。商店街で靴を一足買い求め、弥山まで歩いて行く事にした。片道90分間の道のりである。天候も良く、ちょっとしたハイキングには快適な日和であった。気温は13~14°C程度であったが歩き始めて30分もしない間に全身に薄っすらと汗をかき始めて来た。自分の50才という年齢が意識されだした。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
そんな徳川家康の遺訓が思い出された。母と自分のこれからの生活を考えると、そんな家康の言葉が実感として湧いて来た。
弥山展望台に到着した時は12時を過ぎていた。昨年7月にロッジ風の建物が造り替えられていて360°が眺望出来る絶景の地であった。
厳島神社や大鳥居を眼下に見て、瀬戸内海に点在する多数の島々を見渡す風景は感動で、ちょっと言葉にならなかった。この2年あまり心の襞(ひだ)に溜まった塵(ちり)が薄らいで行くようだ。
1時間近くを展望台で過ごすが、さすがに空腹感を覚えて帰りはロープウェイで下りる。表参道商店街で昼食を摂った時は2時を少し過ぎていた。
食事の後は宮島歴史民俗資料館に出かけてみる。宮島屈指の豪商であった旧江上家の母屋と土蔵の一部をそのまま保存、新たに 2 階建ての展示室を加えて昭和 49 年(1974 年)に開館した資料館である。
衣・食・住、生産、運輸、交通、交易、信仰、年中行事など庶民の生活に根ざした宮島の民俗資料に加え、宮島を題材とした詩歌・絵画や宮島案内記・宮島歌舞伎番付・古文書など約 2000 点を展示してあった。敷地面積は約 500 坪。池のある庭園を囲んで一巡するしくみになっており、宮島の民家を代表する家屋敷のたたずまいも含め、見ごたえのある展示内容である。
「厳島(いつくしま)」という名前が読みこまれた和歌や厳島神社を題材とした短歌・俳句も飾られていた。
秀吉などの歌もあった。
【ききしより眺めにあかぬ厳島見せばやと思う雲の上人】(豊臣秀吉)
【春ごとの頃しもたえぬ山桜よも霧島の心ちこそすれ】(石田三成)
さらに安芸の宮島は古代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕があったので、これを読みこんだ和歌もいつくか見られた。
【入り海の二十浦(はたうら)かけて十島(としま)なる中に香深き島は七浦 】(小野篁)
【恩賀島(たぐいなきしま)の姿は自ずから蓬の山も此処にありけり 】(在原業平)
資料館で40分ほどを過ごし、旅館に戻る。まだ4時過ぎだったが幾らか疲労感を覚え、部屋で出された茶をすすりながら寛ぐ。その後はまた露天風呂でゆっくりと身体を休めた。こうしてみると一人旅も悪くはない。全てが自分一人のペースで楽しめる。何か病みつきになりそうだが、こんな贅沢はそんなには許されないだろう。夫と母に少しばかり後めたさを感じた。
次回に続く

霜月の夕暮れ(94)

ともかく日本人の好きな花の一番は「桜」が断トツで、次いで「バラ」と「チューリップ」が交互に2位を競い合っている。
日本人は何故こんなにも「桜」が好きなのであろうか?
満開の華やかさが良いからか、それとも散り際に儚さやもの悲しさを感じられるのか?
あるいは日本人が持っているDNAがそう感じさせるからだろうか?
いずれにしても桜は、咲いても散っても良いもんだ。そんな為か「桜」の詩歌は多い。
【桜花今そ盛りと人は云へどわれはさぶしも君としあらねば】(大伴池主・万葉集4074) 
意訳:桜の花は今こそ盛りと人々は言うけれど、私は寂しい、あなたと一緒ではないから
【世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし】(在原業平・古今集53)
意訳:この世の中に全く桜というものがなかったら、きっと春の心はのどかであろうに(あぁ、ながめているだけで胸がさわぐ)
【色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける】(小野小町・古今集797)
意訳:(桜の花が咲いてまた散るように)目立っては見えないけれど、移っていくものは、人の心の花であることだ
近代では
「桜ばないのち一ぱい咲くからに生命をかけてわが眺めたり」
岡本かの子 などが興味深い。
現代となると
「散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる」
俵 万智 
なども一興である。
18才から20才ぐらいの思春期に伸枝は一時、詩歌の世界にのめり込んでいた。何時でも詩集の一冊はバッグの中に入れてあった。
片思いや家庭内でのイザコザなどで、心のバランスを乱しかけた時は常にそんな詩集の一冊に助けを求めていた。ランボーも、その中の一人だった。
夏の感触:アルチュール・ランボー
【夏の青い黄昏時に 俺は小道を歩いていこう
草を踏んで 麦の穂に刺されながら
足で味わう道の感触 夢見るようだ
そよ風を額に受け止め 歩いていこう
      一言も発せず 何物をも思わず
無限の愛が沸き起こるのを感じとろう
遠くへ 更に遠くへ ジプシーのように
まるで女が一緒みたいに 心弾ませ歩いていこう】
そんな若き日の思い出に浸りながら、伸枝は旅館に戻っていった。
「お帰りなさいませ」
と、昨日の仲居が急ぎ玄関先に出て来て愛想の良い笑いを浮かべた。
次回に続く

霜月の夕暮れ(93)

翌朝は6時に目が覚めた。よく晴れた気持ちの良い朝である。久しぶりに熟睡した満足感があった。
7時半に朝食だ。赤だしの味噌汁が絶品である。それより、先ず箸からが違う。通常の角張った割り箸と違い、丸みのある上品な箸に湿り気を付けている。手にした箸の心地良い事、こんな所にまで神経を配らせてあるのだ。江戸末期創業の老舗旅館とは、ここまでこだわるものかと改めて感じ入った。
朝食を終え10時には散策に出た。
厳島神社が目と鼻の先である。
平安時代、平清盛により海上に立つ大規模な社殿が整えられたと言われている。宮城県の松島、京都府宮津市の天橋立そして宮島の厳島が日本三景と称えられている。
厳島中央の弥山(みせん)は標高535mで山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされている。
伸枝にとっては2度目の厳島神社であったが、寝殿造りの社殿は日本建築の美の極限とも言える神々しさにうたれる。やはり夫の俊治に勧められるままに厳島に来て良かったと、つくづく考えた。空気の清々しさ、信仰の島の持つ敬虔さなど心の栄養素に溢れている。
気持ちの晴れるまで厳島神社で過ごし、その後は宮島の表参道商店街(清盛通り)をぶらぶらと歩き昼食を摂る。「くらわんか」で広島焼きを食べるが、ボリュームがあり過ぎて1人前は食べ切れなかった。食後も表参道を少し散策して、また紅葉谷公園に出向き桜の木の下で石川啄木の詩集を少し読む。
「いのちなき 砂のかなしさよ 
   さらさらと 握れば指の あひだ      
   より落つ」
「大(だい)という字を百あまり
   砂に書き
   死ぬことをやめて帰り来れり
「ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し
   泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ
   かなしくもあるか」
「はたらけど
   はたらけど猶(なほ)わが生活(く    
   らし)楽にならざり
   ぢっと手を見る
   目さまして猶」
「公園の木(こ)の間まに
  小鳥あそべるを
  ながめてしばし憩(いこ)ひけるかな」
26才で亡くなった若き歌人、啄木の詩集は読むほどに悲しさが募って来る感じだ。桜の花が一ひら二ひらと伸枝の肩に落ちて来た。
急に小林一茶の
「桜花 何を不足で 散り急ぐ」
の俳句が彼女の脳裏をかすめた。
桜への惜別の情を詠んだ句で、幼少から家族愛に恵まれず故に人一倍人間愛、動物愛、自然畏敬が強かった一茶らしい句だ。
また良寛和尚の
「散る桜  残る桜も  散る桜」
人間の生と死を桜に重ね合わせた
托鉢僧侶の良寛らしい句や、松尾芭蕉の…
「さまざまの こと思ひ出す 桜かな」
など伸枝が学生時代に愛読した詩歌が断続的に浮かび上がって来た。
芭蕉が生まれ故郷の伊賀上野に帰り旧藩主の下屋敷に招かれ、数十年振りに花見をしたところ…
辺り一面が昔のままで花を見るや色んなことを思い出し感無量の気持ちを詠んだ句であると、言われている。
次回に続く