想い出は風の彼方に(118)

浩司は父親に、この赤字経営を脱却する秘策がないかを相談した。
父親は明快に答えてくれた。
「ベッド稼働率が満床に近いなら、全体的な室料差額を上げ薬価差益の損失を補填するしかないだろう。それによりベッド稼働率がどこまで下がるか、それが問題となるが…。また他の病院でリハビリでの収益が悪化すれば、当然リハビリを縮小させて行くだろうから、さくら町病院は、その逆を行くのだ。医療保険制度の枠でしか考えられない医療行為は、どうしても収益性に目を奪われてしまう。時には赤字でも目玉商品として、医療保険制度とは関係なく患者さんにとって必要と思われるリハビリには決して手を抜かない事だ。そのリハビリを誘い水にして、室料差額を上げて行けば良いのだ」
浩司は改めて父親の視野の広さに感じいった。彼は早速に父親のアドバイスを受け入れ、大幅な室料差額の増加に踏み切った。病院リニューアルと、リハビリ重視の経営理念が実を結んで、室料差額の値上げにもかかわらずベッド稼働率の低下は微細で済んだ。その結果、病院の経常利益は1億円を超えた。ただし、リハビリ部門に限れば2千万円程の赤字であった。
しかし、病院経営は順調で浩司が50才になった時には銀行からの借入れはゼロになった。
当時バブル崩壊後の日本経済は惨憺たる状況を呈していた。バブル期には日経平均が3万8915円を 付けていたのに1万円をも割り込む大暴落となっていた。
実質GDP(国民総生産) の推移は1994年が117.89(指標)で最高値を付けた後は2013年に98.90の最低値を付けて後に、「日本経済の失われた20年」と云う言葉が流行語にまでなるのである。 一般国民の実質賃金も減少の一途を辿った。この間、米国も欧州も実質GDPは2倍近くまで伸ばしていた。明らかに日銀の金利政策ミスであり、当時の日銀総裁第26代:三重野康(みえのやすし)はA級戦犯と言わざるを得ない。就任 は1989年12月17日、退任 1994年12月16日で正に日本経済は惨憺たる状況に陥れた張本人である。
1990年(平成2年)3月27日に「不動産融資総量規制」という一通の通達が、大蔵省銀行 局長・土田正顕の名で全国の金融機関に発せられた。この異常な投機熱を 冷やすのが目的であったが、この通達により日本の不動産価格は大暴落となってしまった。
その意味では、三重野総裁の金利政策ミスと土田局長の「不動産融資総量規制」が日本金融史上、最悪の政策ミスと言って良いだろう。
その様な不況の嵐の時代にあっても、さくら町病院は黒字経営をそれなりに維持していた。ベッド稼働率は少しばかり低下していたが室料差額の増額分が病院の収支バランスを健全なものにしていた。
やはり、リハビリに手を抜かず常に、患者本位のリハビリを心がけていた事が功を奏していたのかもしれない。
これに気を良くした浩司は51才の年に、病院の大幅な増改築にかかった。父親の予言通りに建築コストはバブル時代の半分近くで済ませる事が出来た。1995年の阪神大震災後一時的には高騰した建築コストも4年を経て、建築コストも落ち着いた時期であった。
次回に続く

想い出は風の彼方に(117)

建築コーディネーターは岡崎設計に頼み、病院側の総務係は事務課長の村上に任せ、病院リニューアルの計画がスタートした。週に一度は病院長、事務長、総婦長、病棟婦長が集まり設計上の意見交換がなされた。
限られた予算の範囲内ですべき事は、病院外壁の塗装、院内の壁紙交換、エアコンの交換、電動ベッドの導入、床材にはカーペットを敷設(ふせつ)し、更に建物の耐震対策などが最低限に必要な事と決定された。これらをゼネコンに丸投げすれば数億以上はかかるであろう。それを何とか1億5千万円以内で実行しようと云うのだから、総務の村上は大変な努力を強いられた。3ヶ月以上も脚を棒にして幾つもの工務店や素材メーカーを歩き回った。岡崎設計のコーディネーター料も1千万円を700万円に値切り、その分は村上が自分の脚で設計事務所に再三通って設計士の補助業務まで行なった。
ともかく全てを安く上げる為には自分の脚と汗しかないのだ。その意味で村上は孤軍奮闘した。
電動ベッドも定価25万円を11万5千円にまで値切り倒した。ベッド業者からは13万円以下では原価割れだと言って泣きが入った。
「それでは、今回はベッドの導入は諦めるしかない」
村上はそう言って、一度は業者を突き放し数ヶ月は何の連絡も取らなかった。結局は業者の方から譲歩して来た。
「いや、村上さんには敵わないや!…その代わりに、この値段で仕入れたって事は何処にも言わないで下さいよ。こんな値段で商売をしていたら会社が潰れてしまいますから…もう、全く」
そんな不満を言いながらも、妥協して来たのだ。全てにわたり村上は、こんな調子で業者泣かせをして徹底的に支出を抑え、目的のリニューアルを9500万円で達成した。これには浩司も事務長も驚いた。以前から浩司が欲しくて仕方がなかった全身用のCTも定価1億2千万円を、ただの2千万円まで値切り倒した。基本的にCTは半値が通り相場だと聞いていたので、村上は腰を据えて価格交渉に入った。3千万円が最後の攻防戦だったが、村上はこれさえも乗り越えた。これ以外にも多少の雑費は要したが全てを含めて1億2千万円で抑え込んだ。この間1年半を要し、1992年3月に病院は見違えるほど綺麗にリニューアルされた。しかし、日本経済はバブルが崩壊し始め、薬価差益は大幅に減少した。その為、この年は初めて病院の収支バランスが赤字に傾いた。ベッド稼働率は98%と年間を通して満床状態が続いているにもかかわらずだ。年間の薬価差益が1億5千万円あったものが、1千万円以下に急落し、浩司が病院長になって初めて2千万円の赤字決算となってしまった。これには、さすがに浩司も焦った。無制限だったリハビリも大幅に規制され、月間600万円程のリハビリ収入が100万円以下に削られた。バブル崩壊と共に医療費の大幅な削減が大蔵省と厚生省により実施され、日本国中の医療機関が悲鳴を上げ出した。綾子は生後1年半の幼児を抱えて、自分の不吉な予感が当たった事を危惧していた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(116)

「綾子、お前にそのコーディネーターの当てはあるのか?」
「今回、色々と相談に乗ってくれた人が病院の仕事を手伝ってくれるかどうかは分かりませんけど、私なりに頑張って探して来ます。後は病院側で、どなたを総務担当にもするのか、その人事はお願いします。私もこんなお腹ですから実際の役には立てないと思いますわ」
綾子は自分のお腹をさすりながら答えた。
「そうだよな、お前の出産予定日まで後2ヶ月もないからな。何とか1ヶ月ぐらいで建築コーディネーターを探してもらって、増改築のプランを早いうちに立てないとな…そうそう事務長さん、銀行の融資は大丈夫なんでしょうね」
事務長はニッコリと頷いて、
「今の様な好景気の時代は、銀行は融資先を懸命に探していますから、この病院の様に堅実な経営をしている病院なら幾らでも貸してくれますよ。先日も菱山銀行が来て、10億円ぐらいの融資を何とかさせてくれないかと言って来たばかりです」
浩司は目を丸くして、
「銀行からの借入れって、そんなに楽なんですか?」
事務長は少し得意気に…
「楽なんてもんじゃあないですよ。少しでも業績の良い所なら、『お金を借りて欲しい』の大合唱ですよ。不動産が馬鹿みたいに値上がりしているんです。数年前までは2DKの団地が1千万円前後だったのに、今では2千万円はおろか3千万円の値段だって付く時代なんですから、こと不動産にしては正に狂乱物価と言えるぐらいです。うちの病院だって1800坪からありますからね、全て借地なんですがね…それでも必要なら銀行は幾らでもお金は貸してくれますよ。旧借地法ですから、自分の土地と変わらないんです。こちらの意志で100年以上でも借りたままでいられるんですよ。土地の借地料にしても固定資産税に毛の生えた様なもので、自己所有の土地と何んら変わりはないんですよ。ともかく今は不動産を持つているものが強いんですよね。お金ではなく、アイデイアと事業の企画力が試される時代なんです。お金なんかどうにでもなるんです」
「そうなんですか、うちの親父なんか戦後の引き上げで土地も金も無く、事業展開には相当苦労していましたがね」
「それは昭和20年代から40年代ぐらいの話でしう。昭和36年から国民皆保険になりましたから、病院や診療所に駆けつける患者さんは急激に増えたのです。この昭和30年代から40年代と云うのほ医療業界の最盛期ですよ。この時代、不動産は買った者勝ちなんですよ。病院も拡張して不動産をより多く所有すれば、経営自体トントンでも土地の担保能力がウナギのぼりでしたから、銀行は幾らでもお金を貸すのですよ。病院が経営破綻に陥るのは、後継者問題と病院以外の事業に多大な投資をした場合だけです。何しろ患者さんは増える一方ですし、医療保険制度ですから貸し倒れなんて発生しようもないのです。こんな安全な事業は他にないですよ。だから銀行は病院だと云うと目の色を変えて融資をさせて欲しいと日参して来るのです」
そう得意気に事務長は説明した。
次回に続く

想い出は風の彼方に(115)

「宣教師の様にか、なる程な。実に言い得て妙だな…それはそれとして、誰か梶棒を取る人間は必要だろう…?」
浩司は綾子に視線を戻して尋ねた。
「確かにリーダーになる人は必要でしょうね。看護婦長さんとか事務長さんとか…」
「いやいや、奥さん。私はその任には耐えられません。先程からお話を伺っているだけで、もう私の様な、年寄りの出る幕じゃないと思っていた所ですから」
「それじゃあ一層の事、綾子お前がやれば良いだろう…!」
「あなた、私は子供を抱えているのよ。今日だって、母に頼んで何とか病院に来たぐらいなんだから…それに後数ヶ月もすれば、もう一人出来るのよ。上の珠江は小学2年だから、それ程には手がかからないけど未だ母親は必要な年令だわ…」
「でも働いている母親は、世間には幾らでもいるぞ。産まれて来る子供は保育園にでも預けて頑張る方法だってあるだろう」
「あなた、保育園だってそんな簡単には入れないのよ。半年以上は待ち続けている人たちが殆どなんだから…」
「そうか、それなら俺のお袋にでも育児は頼むか?」
「あなた、お母様の年を幾つだと思っていらっしゃるの…65才なのよ。2、3日ならともかく本格的な育児なんて無理ですよ。私の母だって、お母様と同じ様な年齢だから当てにするだけ無駄よ」
「そうか、お袋も65才になっているのか。それじゃあ孫の子守りを押し付けるのは気の毒だな…となると、誰にさせるかが問題だな」
浩司は困り果てた顔になった。すると綾子が、
「この病院には総務係の様な人はいないの?」
「総務ですか…皆んなが適当に助け合って、それなりにやっていたから特別に総務なんて係はないですね」
と、事務長が説明に入った。
綾子が少し不満気に、
「それでも100人以上もいる組織を纏(まと)めるには、総務係も必要になるんじゃあないですか…」
「まあ~これまでは何かドンブリ勘定でやっていたので、総務係なんてものの必要性は感じていなかったんですよ。それに余計な人件費も増やしたくなかったですしね」
そう事務長は、事も無げに話した。綾子はあくまでも笑みを崩さず、
「事務長さんのおっしゃる意味はよく分かりますが、逆に効率的な役割分担と云う考え方もありますよ。誰の責任かも分からず、ただその場の雰囲気に流されて仕事をしていると何も満足には達成出来ていないなんて事だって、あるんじゃあないですか?」
「奥様にそうおっしゃられると、返す言葉もありませんが…」
横から浩司が、
「綾子、お前は少し言葉が過ぎるんじゃあないのか…!」
と、口を挟んだ。
「あら、言葉がきつかったかしら…それならお許し下さい。でも、新しい病院の体制作りには、総務係はどうしても必要だと思いますわ。その方を中心に病院改築の計画を立てて行くべきだと思うのですが。それに専門の建築コーディネーターをある期間は雇い入れる必要がありますわね…」
次回に続く

想い出は風の彼方に(114)

「確かに、あなたの言う通りに単純ではないと思います。でもそれは仕事の延長線上と考えるからよ…」
「じゃあどう考えたら良いんだ?」
「自分達の夢の実現に向けて…と云う考えだと思うんだけど。自分の働く職場を自分達の手で作り上げて行くんだと云う夢よ」
「職員の多くが、そんな考えになってくれるかな?」
「それは大上段に構えて行けば、かなりの反発を感じるでしょうね…最初は小さな事から始めれば良いのよ。カーテンが薄汚れて来たから新しいカーテンにしたいなとか言って、どんな色が患者さんの気持ちが落ち着くかなって看護婦さん達の多くに聞いて回るとか…皆んなでワイワイ騒いで決めるのよ。そしたら必ず誰かが意見を言って来ると思うわ。『病院だから白が良いじゃあない…』とか、『いゃあ白よりは薄いピンクの方が良いと思うわ』みたいな意見が出だすと思うのよ。それを多数決で決めるとかして、より多くのスタッフに関心を持たせるのよ。廊下のカーペットにしても皆んなで選ぶ様な雰囲気を作り出すのが重要だと思うわ。上から目線で決めつけては駄目なの…ともかく自分達の病院作りだと云う理念を植え付ける事が大事じゃあない。エアコンにしても新しいベッドを買い替えるにしても、どうやったら安く買えるか、先ずは予算を立てるスタッフ委員会の様なものを作るべきよ。そして予算を下回って良い物を取り揃える事が出来たら、その差額は皆んなの臨時ボーナスにするのよ。私は1億5千万円ぐらいは必要だと今は考えていますが、皆んなの努力によっては数千万円ぐらいの節約は出来てよ。その数千万円を皆んなの臨時ボーナスにしたら、一人で20万円ぐらいの余得になるんじゃあない。一年ぐらいかけて病院全体を、職員の為の病院だと云う意識に発展させて行くのよ。仕事とは違った別の達成感が芽生えて来たら大成功だと思うわ」
事務長は感に耐えないと云った表情で、
「よくそんな事が思い着きましたね。私の頭からではどんなに振ってもそんな発想の一部も出て来ませんね」
綾子は少し顔を紅らめながら、
「これもただの受け売りなんです」
と、答えた。
「大学の友人でクリスチャンの人がいたのですが、彼の勤めていた病院もかなり老朽化が酷かったのです。それをこれまで私が話していた方法で、寄付も募りながらですが見事に病院を再建して行きましたよ。その建築過程を見て、必要なのはお金ではなく志の高さだと、私はとても感動しました」
「志の高さか?…それをどの様にしたらスタッフ全員の心に沁み込ませられるんだろう?」
浩司は溜め息まじりに綾子の顔を見た。
「もっと効果的な方法としては僻地医療の実態を少しでも知ってもらうべきよ。国内でも無医村に近い所は幾らでもありますし、海外に行けば果てしないでしょう。
そんな見聞を通して、医療に携わる人間の心の在り方を学ぶべきではないのかしら。如何にしたら心を一つにした良質な病院が出来るのか、それは上に立つ人間が宣教師の様に心を砕いて説得して行く事でしょう」

想い出は風の彼方に(113)

さらに綾子は話を続けた。
「先ずはこの建築コストの高騰が何時まで続くかです。まあ5~6年は我慢する必要があるんじゃあないですか。それを踏まえて部分的なリニューアルを立案すべきだと思うのです。じゃあ何処をどう直したら良いのか、それが問題です。病院の全体像を明るくする為には先ず、外壁の塗装は不可欠でしょうね。私はクリーム色の温かみのある色が良いんじゃあないかと思うんですが…それに病院内部の壁紙も全面的に取り替えたいですね。もちろんカーテンも替えるべきでしょう。そして廊下ですよね。先ず床材は補強程度にして、はめ込み式のカーペットを敷き詰めて行く方法だってありますでしょう。基本的には業者に頼むのでなく、なるべく職員全体が一丸となってやれば材料費だけで済みますし…病院に対する愛着心も芽生えるんじゃあないですか。エアコンは全面的な取り替えが必要でしょうね。それでも業者任せではなく、家電の量販店で大量に仕入れる事により値段を安く抑えるべきだと思うわ。前の会社の知人に建築コーディネーターもいますから、専門的な相談はその知人に頼むとして…もちろんそれなりの謝礼は必要ですが、それでも大手の工務店に頼んで全てを任せてしまうよりは安く済むはずよ。車の修理だって、そうでしょう。正規のディラーに頼むよりは、町の修理工場に頼んだ方が半分近い値段で済むと思うわ…違うかしら。それと同じ様に、カーペットは町のカーペット店か、家具の量販店で安い物を買い叩くべきでしょう。
その様に一つ一つを小まめにチェックして、どうやったらお金をかけずに病院のリニューアルが出来るか皆んなで検討して行けば、かなり安い費用で目的は果たせると思うのですが…どうでしょうか」
綾子の独壇場的な発言を聞いて、浩司も事務長も目を丸くするばかりだった。これが自分の妻なのか、改めて彼女を見直した。
「なる程…それなら、かなり安くリニューアルする事も可能でしょうね。これまでは大手のゼネコンに任せる事しか考えていませんでしたから…確かに奥様の言う通りに自分達が手作りでリニューアルする為の意識改革をすれば経済効果は言うまでもなく、病院に対する愛着心も職員全体に芽生えて来そうですね」
そう言って事務長は、大きく頷いた。浩司も笑顔で賛同したが、
「しかし、日々の業務だけでも忙しい病院スタッフにそんな協力を頼めるかな?」
彼は当然とも言える疑問を投げかけた。綾子は笑みを崩さずに、
「それが一番の問題です。どうやって職員の意識改革をすれば良いのか…先ずは自分達の病院を自分達の手で作り上げて行くんだと云う達成感の様なものを共有して行けるかに掛かっているのでしょうね。それには幾度もスタッフミーティングを重ねて、自分達が働く職場を少しでも快適な空間にしたいと云う思いを強くして行ける様に、心を通わせる努力をするしかないわ」
「まあ綾子のアイディアは素晴らしいが、事はそんなに単純なものではないだろう…」
浩司はさらなる疑問を呈した。
次回に続く

想い出は風の彼方に(112)

子供二人は自分の母親に預け、次の土曜の午後に綾子はさくら町病院にやって来た。2時間近くも病院の隅から隅まで覗いて回った。浩司が言う様に、病院の老朽化はかなり進んでいる。病室のベッドも傷んでいる物が多いし、廊下の壁も薄汚れている。ともかく病院全体が暗く感じられる。カーテンの色も褪せて汚れが目立つ。一通り回ってから綾子は浩司がいる院長室に入って来た。事務長も呼んでもらった。そして彼女はゆっくりと説明を始めた。
「私の意見を述べさせてもらっても良いかしら?」
「どうぞ、お願いします」
と、事務長はニコやかに答えた。
「先ずは限られた予算で、何処まで病院をリニューアル出来るかです。何をどの様に優先すれば患者様に居心地の良い空間を提供出来るかですね。当面の予算としては幾ら準備出来ますか?」
「まあ、5千万円ぐらいですかね」
事務長は上目遣いに綾子を見た。
「5千万円ですか…それだと少し厳しそうですね。耐震構造の補強まで考慮するとなれば、それだけで5千万円はかかってしまうでしょう。少なくても後7、8年は何とかこの病院を維持して行こうと思えば更に1億円の上乗せが必要ですね」
「すると合わせて1億5千万円は必要だと言うのか?」
浩司が少し厳しそうな表情で言った。
「はい、最低でもそのくらいの投資は必要だと思います」
「ふ~ん、そんなに必要か…しかし、綾子はどこでそんな見積もりを試案したのだ」
「実はあなたには黙っていたんだけど、前に勤めていた総合商社のお友達に色々と相談してみたのよ。それに1週間前に、この病院も実際に見てもらったの…それとなく…」
浩司は驚いた顔で、
「お前は何時の間に、そんな早業を…!」
「あなたのお父様が今は大掛かりな工事をすべきではないと、おっしゃったのを聞かされた時から、私なりに考えていたの」
「いや、内助の功もここに極まれりですな。これだったら私の後を継いで直ぐにでも事務長になれそうですね」
事務長が、そう感嘆の声を漏らした。
綾子は恥ずかし気な表情で、
「私なんか、ほんの聞きかじりですから事務長なんて大役が務まるはずもありませんわ。それに総合商社って言いますのは、どんな所にも首を突っ込みますので、ゼネコンなどとも関係は持っているのです。その中の友人が、何時も口癖の様に、企業の過渡期には最小限の投資で最大限の利益を上げる事が重要だ。お客様の利便性を考えながらも、企業の足腰が固まるまでは不必要な支出は出来る限り抑えるべきだと言うのです。その友人が申しますのには、今やバブル景気で誰も彼もが日本は永遠に発展して行くと思いこんでいます。アメリカの1/25のしかない国土で日本の土地価格はアメリカ全土の倍以上の価値があると豪語している時代なんですって…」
そんな妻の話を浩司は呆れる思いで聞いていた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(111)

過去の歴史を鑑みても、バブル期に新しい事業を起こした場合は、その多くが悲惨な状況に追い込まれている。投資金額がバブル以前に比べ、倍以上になってしまうのだ。そしてバブルが弾けると経済規模が一気に縮小して売り上げそのものが下降するか、値下げ競争の渦に巻き込まれてしまう傾向が強い。いわゆる往復ビンタを浴びる格好である。その結果、経営トップの自殺も急増する。世界のバブルの歴史が、それを如実に証明している現実の前で、浩司は立ち往生していた。
綾子との話も脳の片隅に引っかかっている。自分が背負うべき経済リスクは極力回避しつつ、老朽化した病院の増築改築をどう進めて行くか悩みは深まるばかりだ。
そんな折も折、たまたま新聞の折り込み広告が浩司の目についた。
「新築そっくりさん」
と云うキャッチフレーズである。一戸建てに採用されている、このキャッチフレーズが病院で何処まで通用するかは分からないが、浩司は藁にもすがる思いで折り込み広告の会社に電話をしてみた。
翌日には営業マンが病院に来た。
30代後半の、幾らか太々(ふてぶて)しさを感じさせる男だった。
「正直に申し上げますが、病院の『新築そっくりさん』と云うのは私どもの会社では未だ経験がないのです。100坪から200坪ぐらいの建物が限界ですかね。職員寮とかの建て替えをお考えになっていらっしゃるなら、お力になれるのですが…1000坪近い建物となると、私どもではお役に立てそうにはありません」
そう言って少し薄ら笑いを浮かべ、営業マンは帰っていった。後に残された浩司と事務長は、別の対策も思いつかず途方に暮れるばかりであった。浩司は家に戻り綾子に珍しく愚痴をこぼす。自分の妻に仕事の事で弱音を吐いた事など、これまでには無い事である。そんな夫であったので、彼女は黙って話を聞いていた。聞き続ける事も一つの愛情であると考えたのだ。
「ともかく俺の親父は、今は大掛かりな建築工事をすべきではないと言うのだ。この3、4年で建築資材も倍以上に跳ね上がっているし、事務長と二人で考えていた当初の予算ではとても足りないんだ。だからと言って、あんな古びた病院では真ともな患者は入院させられないし…あれでは職員の意欲も下がってしまうだろう。でも親父の言う事が正しければ建築費も、数年後には大幅に下がるかもしれないし…」
ここで綾子がニッコリと微笑みながら、
「女の私が出しゃばる事ではないけど、お願いが一つあるの…」
「なんだ、その願いとは?」
綾子は笑みを崩さず冷静さを保ちながら、
「出来たら私に、あなたが勤めていらっしゃる『さくら町病院」をゆっくりと見学させて欲しいの」
「何の為にだ?」
「女の浅知恵かもしれないけど、私なりにお金をかけないで病院を再生する方法がないかを考えてみたいの!」
「建築デザイナーでもないお前が、そんな事が出来るのか?」
「もちろん確固たる自信がある訳ではないけど、意外にアマチュアの発想がヒットを呼ぶ事もあるのよ」
次回に続く