断章(22)

(22)日々の思い
昭和の時代を考える(その15)
戦後日本のハイパーインフレ(1945年~)
戦争は莫大なる支出(武器、食料、修理、兵士給与・死亡保障など)が伴うにも関わらず、まったくモノを生み出さない非経済的行為である。そして負けた国は、戦後相手国の損失を補償[金銭・資産賠償]しなければならないという地獄のルールがあった。
そして、日本やドイツはこの勝負に負けてしまった。
第一次世界大戦でドイツが負けた時は、相手国(フランスなど)から支払い不能な賠償金を請求され、徹底的に国力を搾り取られた。その結果、食糧などの物資不足を伴うハイパーインフレーションが発生し、この苦しみからナチスが台頭。第二次世界大戦へと発展して行ったのである。
この教訓により、第二次世界大戦後、敗戦国には莫大な賠償金が請求される事はなかった。これは戦後日本が急速に立ち直れた要因の一つであった。
・日本のGDP
1941年[戦前] 2045億ドル
1944年[戦中] 1974億ドル
1945年[戦後]  987億ドル
戦後処理費用  264億ドル
(参考)第二次世界大戦前・戦中の主要国国力-UNITED DEFENCE
(参考)日本の具体的戦後処理-財務省
ただ、それでも政府には、戦時中、資金調達手段として利用した戦時国債の莫大な債務負担が残っていた。(1944年の債務残高のGDP比204%)
生産設備に関しては、1944年末から1945年8月15日(終戦)まで、大規模な本土空襲※に遭い、大きなダメージを受けていた。
※全国で200以上の都市が被災。死者33万人、負傷者43万人、被災人口970万人。製鉄所や軍需工場を有する工業都市は艦砲射撃によっても破壊された。(日本本土空襲-wikipedia)
そのため税収も大きく落ち込み、財政赤字[歳出>歳入]は拡大。市場から新たに資金を調達しにくくなった日本は、ドイツ同様、国債を中央銀行に引き受けさせる形[裏づけなしの増刷]で財政赤字分の資金を調達。
また、戦後ほどなく軍需関連企業や兵士・遺族などへの支払いが一斉に行われた。
その結果、第一次世界大戦後のドイツと同様、モノと通貨量のバランスが大きく崩れ、1945年末にハイパーインフレが発生した(月率90%ほどで、1945年10月から1949年4月までの3年6か月の間に消費者物価指数は約100倍)。この事は100万円の定期預金(ほとんどが固定金利)が1万円の価値になってしまった事を意味する。
(参考)戦後ハイパー・インフレと中央銀行-日本銀行金融研究所
また、物価が急騰しても国債の返済額は一定のため、政府の債務負担は急激に減少。1946年にはGDP比で56%、50年には10%台にまで低下。
一方で国債を保有していた国民の多くが、無一文に近い状況に追い込まれた。つまり、財産税と合わせて旧富裕層の資産は国に徹底的に吸い取られてしまった。富の再配分が強制的に行われ、新しい日本経済が台頭して行ったとも言える。
また、戦後フランスに工業地帯を占領されて輸出力をもがれたドイツと違い、日本は1947年から民間貿易を再開。その後、1950年に勃発した朝鮮戦争特需により、多額の外貨を獲得し、輸入力[供給力]が回復。一気に成長路線への転換となった。そして新しい富裕層が出現して来た。
次回に続く

断章(21)

(21)日々の思い
昭和の時代を考える(その14)
「農地改革の矛盾」
農地改革で本州の自作農の田んぼの平均耕作面積は、1ヘクタール(1町歩)=10反(100アール)となった。
かなり収穫量の多い田んぼでも、10アールあたりの収穫量は、米で12俵(60kg×12俵)である。
1ヘクタールの田んぼなら、120俵。1俵を3万円として、360万円が年収となる。
この360万円から、農薬・機械などの費用と家族4人の生活費が賄えるのか?
農地改革をせずに、農家一軒が30~50ヘクタールの田んぼを持つのなら、大規模経営だから輸入米とも戦えるはずだ。しかし、1ヘクタールの小規模経営なら、田んぼだけでは食っていけない。
それ故に、アメリカは日本の農業を破壊するために、農地改革をしたのでないかとの推論も成り立つ。
事実、昭和30年代になって1ヘクタールの田んぼでは生活が出来なくなって、都会に出たり工場労働者になった農民が数多く出現している。
日本の農業が衰退したのは、この農地改革にあったとの意見も多い。
現在我が国の食の自給率が低くなったのは農地改革が遠因であると、説く学者もいる。
農地改革で一瞬は、自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。
しかし、一方で、不在地主のみならず自作農からも一定面積を超える農地を没収したため、大規模営農が事実上不可能となり、日本の農業が国際競争力を得られない構造が固定化されることとなった。
戦後に地主とされた者の中には、一家の働き手が外国の戦地から日本に帰還せず、仕方なく田んぼを他人に任せていたところも数多く、不在地主として認定され没収された例も多かった。
農地改革は252万戸の地主から全農地の35%、小作地の75%に相当する177万haを強制的に買収し、財産税物納農地と合わせて194万haの農地を420万戸の農家に売却したものであった。農地買収は正当な価格、十分な補償で行わなければならないとGHQは主張し、インフレによる「物価スライド条項」の導入にこだわった。しかし、時の農相和田(社会党)は徹夜の交渉により、GHQを説得して「物価スライド条項」を撤回させた。
この撤回により戦後の悪性インフレによって貨幣価値がいちじるしく減価したにもかかわらず、農地改革が終了する1950年まで買収価格は据え置かれたのである。この結果、買収価格(水田760円、畑450円)はゴム長靴一足(842円)にも満たない、事実上の無償買収となった。このため、農地を買収された地主階級から*農地買収の違憲訴訟*が相次いだ。
後日、GHQの農地改革担当者ラデジンスキー博士は社会党の実力者となっていた和田と会談した際、和田に農地証券がインフレによりただ同然になることを予想していたのかと質問した。和田は言下にイエスといい、「もし、農地改革を物価にスライドさせていたなら、政府の重い財政負担によって今日のような日本経済の成長はなかった。あの時ラデジンスキー博士が譲歩してくれたのは日本経済のその後の発展への最大の貢献だった」と答えている。
*農地買収の違憲訴訟*
最判(最高裁判決)昭和28年2月18日
~別府農地買収処分事件~から始まった違憲訴訟は、いずれも最高裁で却下された。
次回に続く

断章(20)

(20)日々の思い
昭和の時代を考える(その13)
*ドッジデフレ時代*
ドッジ・ラインとは、アメリカ大統領特命公使として来日した、デトロイト銀行頭取・ジョセフ・ドッジが実施した経済政策である。
立ち直りを見せながらも、いつまでも悪性のインフレが止まらず安定しない日本経済を不安視したアメリカ政府は、荒療治を行なって、日本の経済状態を安定させようとした。
ドッジは、
「日本の経済は竹馬(たけうま)に乗っているような状態だ。竹馬の脚を切らねば倒れてしまう」
と言って、復興金融公庫の債券発行禁止、超均衡予算による財政金融引き締め、統制の緩和、自由競争の促進などを打ち出し、実行させた。
これらは、国の財政健全化と経済の正常化には当然必要な政策であったが、今までインフレが常態化していた日本では、きびしいデフレをもたらした。世にいう “ドッジデフレ” “ドッジ不況” である。
この “ドッジ不況” で、それまでインフレに慣れた経営をしていた企業は倒産し、労働者の失業が数多く発生した。東京証券取引所の修正平均株価(現・日経平均株価)は、85円25銭の史上最安値をつけた。
“ドッジ不況” は、大企業にもきびしい影響を及ぼし、今をときめくトヨタ自動車も、例外ではなかった。
この “ドッジ不況” のとき、トヨタ自動車の当時の社長で創業者の豊田喜一郎は、住友銀行に融資を依頼して断わられ、会社の資金繰りに窮したそうである。
融資を断わるについて、住友銀行側は、
「機屋(はたや・繊維産業のこと)には銭(ぜに)を貸すが、鍛治屋(かじや・自動車などの金属産業のこと)には貸せない」
と言ったと、伝えられている。
占領下の時代、アメリカを始めとする連合国は、日本が二度と軍国化しないように重工業をきびしく制限し、軽工業の国にしようと本気で考えていたと言われていた。住友銀行の貸し出し拒否も、こんな事情が反映されていたのかもしれない。
しかし、この “ドッジデフレ” で、インフレと放漫な経営者は去り、会社にも商店にも堅実経営が戻った。
また為替レートも、1ドル360円と決められ、その後この固定相場が長く続く事となった。
ただ当時、米ドルなどの外貨は、今のように自由に日本円と交換できるものではなく、必要理由のきびしい査定があり、闇ドルの値段は1ドル500円以上との話もあった。
「農地改革」(1946-48)
第二次大戦後の民主化の一環として、日本の指導者と連合国総司令部(GHQ)当局は協力して農地改革(1946-48)を進めた。これは最も成功した占領期の改革の一つとされ、諸外国における土地改革のモデルとなった。改革の目的は、農地を所有しながら自らは耕作をしない地主と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に納める小作農との格差を縮めることであった。農地改革に関する法律は、農地を耕作農民に解放する立場から、一世帯が所有できる農地を家族が自ら耕作できる面積に制限した。特に所有地に住んでいない不在地主からは国がその所有地全部を、北海道以外の地域に住む在村地主からは1ヘクタール(2.5エーカー)、北海道の在村地主からは4ヘクタール(10エーカー)をこえる分を強制的に買収して、小作人に売り渡した。その結果、小作農のほとんどが自作農となり、農民の暮らしは大幅に改善された。
以上は表向きの話しで、実際にはこの農地改革は非常に多くの矛盾を含んでいた。
その矛盾に関しては、次回に考察したい。
次回に続く

断章(19)

(19)日々の思い
昭和の時代を考える(その12)
「財産税の公布」
1946(昭和21)年11月12日
財産税法(臨時法)が公布
GHQの占領下、吉田内閣は財産税法を公布した。
財産に対する課税は今でもある。相続税、贈与税、固定資産税などであるが、戦後のこの時期の ”財産税” は、とてもきびしい臨時税であった。
財産税課税の名目は、戦時利得の没収で、 GHQ(連合国軍総司令部)の指示した
「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」
に基づいて行なわれた。
この年の3月3日の時点で所有していた動産・不動産の合計が、10万円以上の個人に課税されたのである。同一家族で該当者が複数ある場合は、合算された。
1946(昭和21)年11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収される事となった。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりであった。
財産額よる税率 
10万円を超える金額 25% 
11万円を超える金額 30% 
12万円を超える金額 35% 
13万円を超える金額 40% 
15万円を超える金額 45% 
17万円を超える金額 50% 
20万円を超える金額 55% 
30万円を超える金額 60% 
50万円を超える金額 65% 
100万円を超える金額 70% 
150万円を超える金額 75% 
300万円を超える金額 80% 
500万円を超える金額 85% 
1500万円を超える金額 90% 
すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要があった。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷であった。
現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ず、多くのケースで財産が物納された。
物納された骨董品の買い手は日本国内には存在せず、国宝級の美術品が海外に流出して行った。
このとき延納を選び土地を温存し、*ドッジデフレ時代*(次回に解説)の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして生き残れたようだ。
1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家である。
37億4300万円を納め(現在の2兆円弱)、残りの財産は国有財産になった。
秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族は財産税を支払った上に皇籍を離脱させられた。彼らに対しては少しの一時金が支払われたが、直ぐに底をついてしまった。
ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラスチック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうである。
皇族でさえこの状況だから、多くの華族がこの瞬間に致命的な打撃を受けて没落し、路頭に迷う事になった。
1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚したが、その結納金は、なんと400万円(現在の20億円)であった。財産税がなかったら、二人の結婚はなかったであろう。
華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興には役に立ったと思われる。
1948年5月、日本国憲法の制定とともに華族制度は廃止されたが、多くの華族を苦しめ没落させた政府の施策は華族制度廃止の2年前に断行されていたのだ。
次回に続く

断章(18)

(18)日々の思い
昭和の時代を考える(その11)
*極東国際軍事法廷の考察*
インドの法学者ラダ・ビノード・パールのみが
「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」
との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではない。
さらにパールは
「裁判官が戦勝国出身者のみで構成されている事の適切性に疑義を抱き、侵略戦争の責任を個人に求めること」
の妥当性にも言及した。
そして、侵略戦争と自衛戦争の区別。この中でパールは、日本の戦争を一方的な侵略戦争とは断定できないとしている。
この論理の背景には、世界中が侵略戦争に明け暮れていたとの見解がある。
それを侵略戦争が罪であると云うならば、連合国側こそ裁かれる立場にあるとの思考がパールにはあった。
連合国側の勝者の論理でのみ裁判の妥当性を論ずる事に、彼は深い懸念を現したのである。
そして更に、厳密な意味での戦争犯罪の検討をするなら、非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪になると規定した場合、日本への原子爆弾投下を決定した者こそ裁かれるべきであろうとしている。
もちろん、彼のこの様な見解は連合国側の圧倒的多数の判事たちに握りつぶされてしまった。
「公職追放」
軍人だけではなく、戦時中に軍に協力的であったとされる政治家や思想家など20万人が職を解かれ、公職から追放された。政府機関の職に就くことを禁止された人も多く、戦争犯罪人とされた人、大政翼賛会に関与していたとされる人も公職に就くことは許されなかった。
「情報統制」
GHQが最初に行った政策が検閲であった。ラジオ、新聞、雑誌、一般市民発行の本まで厳しく検閲し、軍国主義的なことを掲載しているもの、戦前や戦中の日本を肯定するもの、GHQを批判する内容などは、徹底的に排除された。
「貴族制度の禁止」
昭和22年(1947年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、*華族制度は廃止された。推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。
*華族制度は
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。
この華族制度は以下の様な状況で作られた。1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させたが(版籍奉還)、何の代償もなく、大名が自分の領地を手放すはずはなかった。そして大名には軍事力があったので、大名と藩士の主従の関係をどう断ち切るかが問題であった。
つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功した。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生している。
5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられた。
1884(明治17)年、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられた。
当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけで、加賀100万石の前田家は、侯爵に過ぎなかった。薩長の藩閥政治の影響であろう。
この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことである。
伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられた。
旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立していた。
学習院は、昔は華族学校と言って、皇族と華族の子供を教育する学校であった。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められていた。
公爵と侯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証され、伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がなかった。
この様にして華族は、80年間、日本の上流社会を形成していた。
次回に続く

断章(17)

(17)日々の思い
昭和の時代を考える(その10)
1945(昭和20)年
・労働組合法制定
1946(昭和21)年 
・(1月)*昭和天皇の人間宣言*
 1946(昭和21)年1月1日,昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」によりみずからの神格性を否定した宣言である。冒頭に五か条の御誓文を掲げるなど,戦前の天皇制を完全に否定したものではなかったが,一般的には天皇の現人神を否定した詔書として受けとめられ,「天皇人間宣言」とよばれた。この詔書はGHQの意を受けて幣原首相が外国を意識して英文で起草したことでもわかるように,天皇の神格性の否定によって,天皇の戦争責任や天皇制の廃止を免れようとするもので,その効果を十分に果たした。さらに,同年11月3日の日本国憲法の”象徴”天皇制を先取りするもので,総司令部の民主化政策に適応させて戦後の天皇制の維持をはかったものであった。
・(11月3日)日本国憲法公布
(施行は1947年5月3日)
この公布により天皇が神格化された大日本帝国憲法は正式に効力を失った。
しかし、新憲法は*GHQ*の監督下で作られたもので日本国民の自主憲法とは言い難い。にも関わらず2018年の今日まで「平和憲法」の名の元に日本国民は、この憲法を圧倒的な支持で受け入れている。外国では、この様な例は見られない。どの国でも時代の流れの中で部分的に憲法改正は行われているのだが、他国の支配の下に作られた憲法であるにも関わらず、憲法改正は即、軍国主義への道と言うばかりに改正の議論そのものが、日本ではタブー化されている。
その精神構造は、戦前の「国民精神総動員」の真逆的な発想ではあるが、一切の議論をも封じ込めてしまうと云う点では、何か類似性を感じてしまうと思われてならない。
*GHQ*
連合国最高司令官総司令部は、第二次世界大戦が終結する際に、ポツダム宣言執行のため日本を占領して間接的に統治を行った、連合国の日本での司令本部で、日本ではGHQという通称が使われた。連合国軍総数20万人のうち、12万人が横浜市に上陸した。最高司令官・マッカーサー元帥が飛行機から日本(厚木基地)に降り立つ姿は、日本の歴史に刻まれている。
*日本を統治
1945年9月、第二次世界大戦が終結して間もなく、日本がポツダム宣言を受諾した。平和条約発効までの6年9ヶ月の間、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦、カナダからなる連合国軍が日本の間接統治権を与えられ、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が最高司令官として着任した。それまであった日本の政治機構を引き続き利用し、日本政府に指示や命令を出す間接統治であった。命令の多くはポツダム命令の形で公布や施行され、政府にとって連合国軍からの命令は絶対的で超法規的なものであった。
日本はGHQにより軍事機構と国家警察が廃止された。さらに政治の民主化、政教分離、財閥の解体、農地解放が行われ、これまでの日本の国家を完全に改造した。この間、日本に外交権はなく、内政のみ日本が行っていた。
【GHQの政策】
組織の一番の目標は、小国ながらも世界を敵に回した日本の軍事力を解体することにあった。それまで軍国主義だった日本から軍隊をなくし、民主的な国家の形成を目指した。
「軍事裁判」
GHQは日本を占領直後から、第二次世界大戦の指導者の検挙に着手した。東条英機元首相ら数十名が逮捕され、A級戦犯として*極東国際軍事法廷*において、国際法に違反した法律による裁判で、東条英機以下7名を絞首刑、残りの多数を禁固刑などに処した。
次回に続く
 

断章(16)

(16)日々の思い
昭和の時代を考える(その9)
1945(昭和20)年
8月10日 ポツダム宣言受諾の決定
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 *宮城事件*、*玉音放送*
*宮城事件*(きゅうじょうじけん)とは、1945年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
日本政府は8月14日の時点でポツダム宣言の受諾を連合国側に通達していたが、これに陸軍が反発。15日に予定されていた天皇の玉音放送を阻止し、戦争を継続させようと目論み、皇居へと襲撃をかけた。
陸軍によって皇居が一時制圧されるも、最終的にクーデターそのものは失敗し、首謀者らは自刃した。
1945年8月、2発の原爆を落とされ、資源も尽きていた日本は、連合国側からポツダム宣言を突きつけられ、8月13日の最高戦争指導会議で、ポツダム宣言の受諾を決定する。
日本時間8月14日に連合国側にその旨(ポツダム宣言受諾)を伝えている。
ただ、これに最後まで反発していたのが陸軍だった。海軍・空軍が壊滅的状況の中、陸軍は本土決戦用に温存され、当時でもなお230万の兵力を保持していた。
この状況で無条件降伏を受け入れるというのは、軍人としてはもちろん、当時の神国と言われていた日本の精神的基盤を考えれば、一部の人たちにも無条件降伏は受け入れがたいことであった。
そのため...ポツダム宣言そのものを拒否するとの意向を固め、畑中少佐を含めた6人の陸軍将校らが、当時の陸軍大臣であった阿南惟幾(あなみ これちか)大将に「兵力使用計画」というクーデター計画を掲示し、クーデターへの賛同を求めていた。
このクーデター計画は、近衛兵と東部軍を用いて皇居を占拠し、天皇を擁立、政府首脳部の和平派追放、ポツダム宣言破棄、戦争継続を訴えていく....といった内容であった。
ただ、このクーデター計画自体は阿南陸軍大臣らに否定され頓挫する。阿南大臣からの返答があった時点で8月14日午前を迎え、既に連合国側にポツダム宣言受諾を通告していた。
もし、このクーデターが成功していたら、日本国民は本当に「一億総玉砕」の運命に巻き込まれて行ったかもしれない。
そして8月15日正午、天皇陛下の「玉音放送」が日本中に流されて戦争の終結となった。
9月2日 *降伏文書調印*
日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸した。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたマッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言した。
降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了した。以後、1951(昭和26)年9月の対日講和条約調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになった。
*選挙法改正→20歳以上の男女に選挙権
幣原内閣の堀切善次郎内務大臣は、婦人に初めて選挙権及び被選挙権を認める「衆議院議員選挙制度改正要綱」を、昭和20年(1945)10月23日の閣議に提出、衆議院議員選挙法改正法案として帝国議会に提出、12月15日可決成立した。婦人参政権は、男女同権を規定する日本国憲法に先立って制定された。同時に、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上と、それぞれ引き下げられた。
次回に続く

断章(15)

(15)日々の思い
昭和の時代を考える(その8)
昭和の軍部が陥った精神論とは?
職業軍人は、幼年学校や士官学校、さらに陸軍(海軍)大学を通じてエリートとして養成され、社会との接触を知らずに成人となって行った。
明治10年の西南戦争で旧士族の反乱に懲りた当時の政府は、軍人達に愛国教育、天皇を神として敬う宗教教育を徹底し、それが軍部全体として神がかり的な体質をつくり出す事になった。
そうした体質がひきおこした事件としては、いわゆる八甲田事件がある。
これは、1902年におきた出来事で、日露戦争を想定した冬山行軍訓練で起きた事件である。現場の指揮官は、この寒さ(酒が凍る寒さ)でこの装備では兵士らは間違いなく凍死すると判断し、一旦は訓練の中止を決定するのだが、
「そのようなことでお国の為に役にたてますか」
と下士官らが騒ぎ出し、その場の雰囲気に引きずられた監査役の上官が訓練続行を指示。危険を予想しながら雪山に入り、そして予想通りに部隊のほぼ全員(210名中199名)が死亡した事件である。
食べ物がないと判っているジャングルの中、少ない兵站で行軍を強行し、案の定大半が餓死したインパール作戦(1944年)と非常によく似ているかもしれない。
可能な作戦か不可能な作戦かを判断して、兵を温存するのも将校の役割の一つなのに、「お国のために」という「空気」にあうと自暴自棄の行動にでる。これが軍部の”神がかり”体質であったのだろう。
こうして、現在の私たちには考えられない精神構造が国民全般に構築され、ひたすら軍国日本は壊滅への道に突入して行った。もちろん日本人の中には、この様な戦争に懐疑的な勢力もあった。地下組織の中で非合法の抵抗を示す社会主義や共産主義の人たちも存在したのだが、それらは *特別高等警察により徹底的に弾圧された。
*特別高等警察*(とくべつこうとうけいさつ)は国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者・共産主義者・社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした大日本帝国の政治警察である。内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県に設置されたが、その後、1928年に全国一律に未設置県にも設置された。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言う。第二次世界大戦後の1945年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示により廃止された。
この様な国家的な弾圧と軍部による精神主義の喧伝により、泥沼化した戦争が遂行された。
フィリピンの戦い (1944-1945年)
1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦い
と、絶望的な状況に日本全体が追い込まれ、
8月6日 *広島市への原子爆弾投下
8月8日 ソ連対日参戦
8月9日 長崎市への原子爆弾投下
へと続く。
*広島市への原子爆弾投下*(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。
*日本への原爆投下の意義*
元陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」による米兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている。しかし、スティムソンの見解はスタンフォード大学のバートン・バーンスタインによって、厳しく批判されている。バーンスタインは、原爆投下の目的が「一般市民への殺戮」かつ、「日本への懲罰」であることを明らかにしている。さらに西洋人による東洋人への人種差別的な意味あいを内在した「人体実験」であったとする学者の意見もある。
次回に続く