診察室からコンニチハ(86)

病院開設時の数ヶ月間は混乱に次ぐ混乱でした。大学病院から引き抜いて来た看護主任も、そんな混乱の中で早くも退職届けを出して来ました。新しい看護婦が何人も入職して来ましたが、何もかもが落ち着かない職場では辞めて行く看護婦も数人ではききませんでした。常勤医は私以外に60才過ぎの年配の女医さんが一人きりで、後はパートの医師で何とか遣り繰りしていました。
開設時の1年間、外来診察は午前中だけでしたが、その外来は全て私一人でこなしていました。昼食後の2~3時間は新規の職員面接と、新たな職員確保の為の戦略会議で過ごしました。
入院患者さんの回診は、外来診療の合間と午後4時からの1時間。そして患者さん夕食後の午後6時から消灯時間の9時までに済ませ、それからカルテ整理が始まります。検査結果のチェック、治療方針の再検討などの仕事が終了するのは午前1時ぐらいでした。夜勤当直は週に3回、私一人で頑張っていました。年配の女医さんには週1回の当直をお願いして、残りは大学の後輩に頼んでいました。その女医さんが当直の日には、毎週のように大学の研究室に出向き、同僚の医師たちを誘い合わせ飲みに出かけました。何とか彼等と打ち解け、常勤医とまで言わなくてもパートだけでも良いから少しでも私を助けてくれないかと口説いていたのです。その内、大学の部活で1年後輩の里中(仮称)医師が週に1日だけなら手伝ってくれても良いと言って来ました。これは大きな戦力でした。里中医師は、将来は教授になっても良いような逸材でした。医学的にも彼から学ぶ事は多かったのです。亀の歩みにも似た速度でしたが、病院内部の人材確保は着実に進んでいました。
病院開設の1年間は、また後悔の連続でした。何故こんな大それた病院運営など手がけてしまったのだろうかと…。
いま置かれている立場から考えると、大学病院の医局生活は夢のような時代に思えたのです。ただ患者さんを診て、医学の勉強だけをしていれば良かったのですから。それに比較して、病院運営では医療に関わる時間は4割ぐらいで、後は職員集めや経営効率の反省さらに税務対策にまで頭を痛めなければならなかったのです。何もかもが未体験の分野で、空想で病院開設を夢見ていた状況とは、その苦悩は余りに違っていたのです。毎日見る夢の多くは、大学病院での医局生活でした。あの時代に戻れるなら、今すぐにでも以前の生活に帰りたいと幾度考えたか分かりません。
次回に続く

青田さんへの回答

一般に囲碁、将棋は認知症予防に効果があると言われています。その根拠になるのは脳内ホルモンのノルアドレナリンやドーパミンをが活性化するからだろうと考えられています。しかし、ムキになり過ぎると血圧を上げる原因にもなります。何事も楽しんでやるのなら良い事です。
また蛇足になりますが、『まだら認知症』と云う医学用語はありません。認知症に至る『まだら現象』と云うのが正確な言い方です。
【ご質問】
成川先生、質問させて下さいませ。
以前、父親の骨折のことで、ご相談しましたが
現在、父親はリハビリ病院に転院し、入院中です。
この病院は、車椅子での身体拘束はしますが
ベットはセンサー設置で対応しています。
一日2時間~3時間のリハビリで、入院当初は、医師は軽度認知症だと話していました。
現在は、『まだら認知症』ではないかと語っていました。
姉の子(甥)が将棋を指しに行き、将棋を楽しそうにしていました。
将棋は、認知症予防、認知症改善などに効果があるのでしょうか。
成川先生のお考えをお聞かせ頂ければ有難く思います。
お忙しいとは存じますが、よろしく、お願いします。

診察室からコンニチハ(85)

病院開設に最も苦労したのは土地探しでした。母校の大学病院を中心に半径50km以内を条件に、千葉の流山、神奈川の海老名、厚木と探している間に1年と云う月日が直ぐに流れて行きました。
1000坪以上で、近くに住宅地が密集する農地(市街化調整区域の農地は一般住宅地の1/3ぐらいの価格が普通でしたので)を探し出すと云うのは、予想以上に困難でした。自分の脚で一軒一軒の不動産屋を回っても土地など見つかる訳もなく、結局は建築業者の斡旋に頼むしかなかった訳です。何人もの地主の方と話し合い交渉の結果、やっと横浜市青葉区に1400坪の敷地確保の話しがまとまりました。土地探しを始めて2年が経っていました。それから設計に1年、建築に1年余りをかけて何とか念願の病院が開院の運びとなりました。
未だ外壁工事も終わらないコンクリートが丸出しの病院の屋上から、田園風景が広がる外界を目にした時の感動を忘れる事はないでしょう。昭和58年の師走も終わりに近づいた寒い日でしが、心の中では明日の闘志を燃やしていました。スタッフ募集は11月末からスタートしました。ヘルパー、給食、事務、検査技師などは比較的に応募して来ましたが、レントゲン技師、リハビリのスタッフなどの人集めには苦戦していました。しかし、最大の難関は看護婦を集める事でした。看護婦は大学病院とバイト先の病院から10名近くは何とか確保出来ました。それ以外には事務職員に、東北や九州の看護学校や高校に幾度か出張させ看護婦集めに奔走させました。もちろん毎週のように新聞募集もしていました。それやこれやで看護婦も20名ぐらいは集める事が出来ました。
昭和59年2月1日より患者さんの入院受け入れが開始されました。この時点で入院予約は200名を超えていました。入院ベッド数125床(当時)を満床とするには1年近くかかるだろうと考えていたのですが、入院予約が200名と云うのは嬉しい誤算でした。しかし、この予約患者さんをスムーズに受け入れる内部の体制作りが余りに遅れていました。とりあえず1日に5名づつ入院させて行きましたが、わずか7日目で受け入れ体制はパンク寸前に追い込まれました。薬剤を中心とした備品の整理には十分に神経を使ったのですが、それでも緊急時に必要な薬剤が無かったり、包帯、脱脂綿などの置き場所が分からなかったりと、多くの混乱が待ち受けていました。
入院患者さんの受け入れは35名でストップして、再度内部の体制作りをチェックすべき状況に追い込まれてしまいました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(84)

高齢者の医療とは何かを模索していた私は、その新しいバイト先に期待を込めて臨みました。限られた老後のQOL(生活の質)を如何に向上させるか、その為に出来る医療とは何か?
そんな思いに駆られて始めたバイトでしたが、その経営者とは明らかに医療に対する考え方が違っていました。
彼は親の代から精神病院を運営していて、精神病院の経営効率よりは老人病院の経営効率の方が高いであろうとの利益追求主義から、新しい病院運営に乗り出したのでした。不必要な検査、不必要な点滴が日常的で医療と言うよりは、医業(医を業務と考え利益が中心)的な思考しか持っていませんでした。さらに私がこの病院で学んだ事は、古い体質の精神病院では医療を行うと云うより精神障害の患者さんをただ預かるという発想を抱いている病院経営者が、かなり多いという印象でした。
その様な精神障害の患者さんについては、当時の精神医学では不治の病的な思考が根強く根本的な治療は最初から断念しているケースが余りに支配的でした。
医療関係者のみならず、社会でも、
患者ではなく、邪魔者という考えを多くの人達が持っていたのです。
ですから治療法が確立していない抗精神病薬で、種々の副作用から死にいたっても責任の追求はおろか、患者家族から歓迎される事も稀ではありませんでした。
それと同じ発想が老人病院にも適用されていたのです。認知症の老人が亡くなっても、悲しまない家族もいたのです。そう云った時代背景もあり、昭和50年代までは眉間にしわを寄せたくなるような老人病院の経営者もおり、社会問題となった事もありました。
私はその後も幾つかの老人病院を見て回りましたが、医療不信と言うよりは、不道徳な臭いが漂う病院も少なくなかったのです。心電図やレントゲン撮影もただ点数稼ぎの為に行うだけで、その1枚もまともに読影していない様な病院さえあったのです。もちろん薬の使用方法も乱雑を極めていました。常識的な知識を持った内科医なら正視出来ない医療現場も多かったのです。その様な病院の幾つかを見て、私は良質な高齢者を中心とする病院経営を目指してみたいと思うようになったのです。
自分一人の力で、その様な病院経営をしてみたいと思っていたのですが、現実には不可能でした。結局は都市部で幾つものビジネスを手がけていた父親から、財政的な援助を受ける事になってしまいました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(83)

その暴力団が経営する病院で、私たちは努力限りの医療活動をしていました。よくこんな病院に入院する人がいるなと思うくらいベッドは常に満床でした。それは病院数が今よりずっと少なかった事と、老人ホームなどの福祉施設が皆無に近い時代でしたので、病院は寝たきり老人の施設的な役割を果たしていたのでしょう。ですから昭和50年代までは、一般的な医療知識を持っていた医師が経営する医療機関で経営的な危機に瀕するなどは考えられなかったのです。日本全体が好景気に沸いていたのと同様に病院経営も絶好調だったのです。それが平成バブル崩壊後、病院倒産も著明になって行くのですが、その話は後にしましょう。
病院長がいない病院、バイトだけで繋いでいる病院、そんな病院がどうやったって継続して行ける訳はないのです。そんな中で事務長は必死だったと思います。私たちの数人を一流の料亭に招いたり、破格のボーナスを出したりして何とか私たちの一人が病院長になってくれないかと幾度ともなく拝む様に説得されました。提示される年収も破格でした。
私たち同僚の多くは、それなりに悩んでいた様です。このまま大学病院でコツコツと働くのが懸命なのか、こんな病院でも「長」と言われる人になって経済的に恵まれた生活をするのが良いのかと…
しかし、私自身は未だ自分の医師としての未熟さを自覚していましたので最初からそんな話には耳を貸しませんでした。それでも、これほど多くの認知症患者さんを多数診させて頂いたのは大きな経験でした。病室に立ちこもる便臭、褥瘡の多さ、ゴールのない入院生活など、大学病院では考えられない状況でした。そこは病院というよりは老人施設そのものでした。建物の老朽化と考え合わせると、正に「姥捨山」と言っても過言ではなかったと思います。結局、その病院は保健所の医療監視のもとで廃院に追い込まれ、私たち同僚もバイトを辞めざるを得なかったのですが、この一件は私に強い印象を残しました。
自己資本などなくても、廃院しかかった病院を自分の力で立て直して行けば良いのだと云う一筋の道が脳裏にかすめたのでした。
その後も私のバイト生活は続いていました。一時は「人工透析」専門の病院でバイトをした事もありましたし、川崎のドヤ街に近い病院でアル中患者相手の「肝臓外来」も数年近くはやっていました。
そのうちに、ある友人から新しく出来た老人病院のバイトを頼まれました。
彼自身は精神科医だったので、内科の事はよく分からないから色々とアドバイスをして欲しいと懇願されたのです。
次回に続く

診察室からコンニチハ(82)

元講師であった山村先生との出会いから私は病院経営を意識し始めていたのですが、どの様な規模でその目標とするかは未だ方向が見えずに模索していました。ですから、それ以後のバイト選びはただ臨床経験を多く積む為だけでもなく、バイト代の高さを望んでいただけでもなく、自らが目指す病院作りはどうあるべきかを目指すバイト先を意識的に選んでいました。
それより数年以上前に、先輩医師から頼まれ経営危機に瀕していた老人病院のバイトに関わっていた事がありました。未だ30才前の私でしたが、1年近く日当直で実に良い経験をさせて頂きました。ベッド数は100床前後で廃屋を病院にした様な建物で、廊下を歩いていても、ギシギシ音が出るような感じで夜中の当直帯には幽霊が出てもおかしくない雰囲気でした。
昭和40年代ぐらいまでは、今と違って病院の建物はずっと貧弱でした。産院なんかでも、こんな所で子供を産むのかと考えてしまうほど老朽化した建物はかなり多かったので、そんなバイト先の老人病院でも特に私は違和感を持っていませんでした。それよりは常勤医が一人もいなくて、大学からのバイト医だけで繋いでいる現実の方が奇異な印象でした。
元病院長は病院経営に失敗して、その経営権は組織暴力団の手に渡っていました。そんな前後の事情は何も知らされず、先輩医師から…
「何とかひと肌脱いでくれ」
と、頼まれて始めたバイトでした。
勤め出して数ヶ月間で、暴力団が経営している病院だと気付いたのですが、その時は全く足の抜けない状況におかれていました。生来がお調子者の私は、その時までに大学病院の仲間を7人以上もその病院に紹介して皆んなで繋ぎながら病院運営を切り回していたのです。50才前後の事務長は少し目の鋭い強面の人でしたが、私たちには常にニコニコと愛想良く振舞ってくれました。バイト代も相場より2割ぐらいは高かったと記憶しています。そんな事より私が一番興味を持ったのは、元の病院長が何故病院経営に失敗してしまったかと云う事です。その病院長は軍医上りで、現代医療の知識はほとんど無く、老人病院だったら医学知識などあまり必要ないだろうと考え安易に組織暴力団の口車に乗せられ、その病院経営に手を出したらしいのです。
昭和40年代は戦後20数年ですから、その様な軍医上りの医師はかなり多かったようです。彼等の一部は大学病院に戻って再度勉強しなおした人たちと、医学的知識が乏しくても務まる船医なった人とか、精神病院で医師の肩書きだけで何とか露命を繋いだ人とか色々といた様です。
しかし、如何に老人病院といえども医学的知識が乏しくて務まる訳はないのです。それ以前に、その暴力団がどの様な事情でその病院の経営権を手にしたかは不明でしたが、彼等にしてもそんな医師で病院長が務まると考えたのは実に安易な発想でした。そんな訳で元病院長は3年足らずで行方をくらましてしまった様です。そんな後に世間知らずの私たちが乗り込んだのです。
次回に続く

診察室からコンニチハ(81)

しかし一口に病院経営をすると言っても、その経済的資金はどうするかが大きな壁でした。医師になってから5~6年目ぐらいからは大学以外でのバイトも多くなっていました。当時の母校の校風は比較的に自由な雰囲気が強く、外での日勤は週に1日半と云う規定でしたが、(現在は週に1日)それさえもルーズに破られていました。夜勤当直は自分の体力次第でした。大学病院での当直が月に1~2回程度でそれ以外には月に7~8回程度の夜勤当直をバイトでこなしていました。ですから30才前後からは年収で700万円から1千万円前後はバイトで稼いでいました。さらに私の敬愛する先輩医師から、
「若い間はなるべく救急指定病院でバイトした方が実践力が早く身に付く」
と言われ、経済的理由と臨床医としての症例経験を沢山積んでおきたいとの思いからバイトに励みました。妻が出産で実家に帰っている間などは、月に25回も夜勤当直をした経験もありました。肉体的な疲労感は限界に近かったのですが、精神的にはとても充実していた様な気がしていました。医師になってから6~7年目からは誰よりも早く救急車の音に気付くようになっていました。自宅で寝ている時などにも、
「もう直ぐ救急車の音が聞こえて来る」と言って、
隣に寝ている妻を驚かせた事が幾度ともなくありました。バイトの救急指定病院での正月当直には1晩で18台もの救急車を一人で対応した事もありました。ともかく30才前後と云うのは、医師の仕事が面白くて仕方がなかったのです。
しかし外でのバイトが許されたのは、大学で重症の患者さんを受け持たない場合だけでした。当時、血液内科に籍を置いていた私は、白血病などの重篤な患者さんの主治医になる事が多かったので、そうなるとバイトには行けず大学で無料の当直をさせられる日々も幾度かあって、その結果バイトでの収入が激減して月に30万円近い金額が手元に入らず、通帳のお金を取り崩して生活費に充てる事も稀ではありませんでした。ハードな仕事を与えられながら月の収入が半分以上も減ると云うのは、精神的にはかなり辛かったのです。如何に医療の本質がボランティアなどと偉そうな事を言っても、妻子を抱えた身には厳しかったのが現実でした。
次回に続く

古川さまへの回答

嫉妬妄想71才での症状発現は少し早い気がしますが、何か妄想を誘発する前駆症状がありましたでしょうか?それ以前のご夫婦仲はどうだったのでしょうか?
ご夫婦、別々の個人的なカウンセリングが先ずは必要です。昨今の精神科では、この様に手間のかかるカウンセリングは行わず薬物に依存する傾向が強いので困っています。たとえ認知症による嫉妬妄想だったとしても、お母様の気持ち(チンプンカンプンだったとしても)を充分に聞き入れ、ご夫婦で、あるいは家族で旅行に行ったりする努力を重ねるべきでしょう。途中ヒステリックな症状が出て、旅行に行くなど不可能だと思われなら、その時になって適度な薬剤使用が必要になるかもしれません。
ともかく安易に認知症と決めこんで精神科にかかるのは、時に弊害のみが残るかもしれません。抗精神薬は必要となるかもしれませんが、先ずはカウンセリングがあるべきです。しかし、現状の精神科医(特に大病院などは検査をするばかりで)は、その後の治療には関心を示さない所が多いのです。
私もそれなりの抗精神薬は使用しますが、それはあくまで充分なカウンセリングを通してです。2005年から「日本認知症学会」が発足されておりますが、ネットで認知学会員の医師を探してみてください。普通の精神科医よりは、はるかに納得の行くアドバイスが受けられるかもしれません。本当は、直接にお母様とお会いして、その精神症状を丁寧に診させて頂くのが本当なのですが、現段階ではこれ以上のコメントは控えさせて頂きます。また抗精神薬も多種多用で、実力のある認知症専門医であるならば、そこまでお母様の病状を悪化させずに済むのではないかとも思います。真剣にカウンセリングをする医師であるか否かは重要なポイントです。しかし、誠に残念ながら、この様なカウンセリングをする医師は希少な存在です。
[ご質問]
母(71歳)のことですが、2年ほど前から父に対して嫉妬妄想がすこしずつ出始め、最近では一日中妄想話をしています。精神科に連れて行き、薬の調整などもしてもらいましたが、なかなか合わずで、父を殺したいと言い始めたため、精神科へ医療保護入院ということになりました。
入院していても、電話で父に対して嫉妬妄想が強く、母は父が浮気するために入院させられていると思っているところもあります。
物忘れもすごく進み、面会に行っても、次の日には忘れています。表情も乏しくなってきており、認知症特有の顔貌になっているように感じます。
そのうち、退院の話が出てくると思うのですが、症状が改善されていない状態での退院は父が疲弊するだけで、以前と何も変わりないと思うんです。父は昨年夏に、母の妄想の聞きすぎから鬱病になり、自殺未遂をしました。(オーバードーズ)
退院でなく、施設入所などのほうがよいのでしょうか。
遠方に住んでいる娘なもので、どうしたら良いか悩むところです。