想い出は風の彼方に(33)

綾子は、そんな浩司の独舌とも自戒とも言えぬ話を黙って聞いていた。慰める言葉もなく乱雑に散らかった本の後始末を黙々とするのみだった。何から手を付けたら良いのか分からない本の束の中から、やや大きめの茶封筒に入った数100枚に及ぶ原稿用紙が目に入った。茶封筒の表紙には「なおこ」と書かれてあった。
「なおこ」って、何だろうか。普通に考えて女性の名前だろう。浩司と、どんな関係のある女性なのか?
綾子は好奇心で胸が一杯になって来た。だからと言って、勝手に中身を覗く訳にも行かない。浩司も何時しか綾子の茶封筒に向ける視線に気づき始めた。
「その茶封筒が気になるのかい。僕が半年程前に書いた、愚にも付かない恋愛小説だよ」
「浩司さんて、小説も書くのですか。凄いですね」
「凄くも何ともないよ。小学生の文章に毛の生えた様なものだ。恥ずかしくて他人には、とても見せられたもんじゃない」
「浩司さんの恋愛体験ですか?」
綾子の瞳がキラリと輝いて、尋ねて来た。
「まあ、実体験が1~2割で後はフィックションだよ」
「うわぁ、読んでみたいな。浩司さんが書いた小説なんて非常に興味をそそるわ」
「そんな大した小説ではないよ。大体が綾ちゃんに読ませるなんて僕は恥ずかしくて嫌だよ」
「そんな意地悪を言わないで、お願いだから…ね!」
幾らか甘える様な口調で綾子は彼に迫った。浩司は少しムッとした感じで、
「今日ここへ来た目的は英語の勉強をする事がが目的で、僕の愚にも付かない小説を読むのが目的ではないだろう」
そう言われて綾子は一歩引いたが、それでも更に食いさがった。
「そんな恐い顔をしないで、私は日頃から尊敬する浩司さんが一体どんな小説を書いているのか興味を抱いただけよ。英語の勉強もちゃんとするから、その小説も読ませて…ねえ、お願い!」
「また、そんなお世辞を言って僕を丸め込もうとしても駄目だ。大体が自分で読み返しても、余りに稚拙な文章展開で、とても君に読んでもらえる様な内容ではないよ。クラスの同人誌仲間からも、散々に酷評されているんだから」
「まあ、浩司さんってワンダーフォーゲル部だけではなく、そんな同人誌もやっていたの。益々見直したわ。それじゃあ他にも幾つかの小説も書いているの?」
「確かに、何冊かの小説らしき物は書いているが、どれもこれも似たり寄ったりで下手くそなものばかりで、日記の延長みたいなものばかりだ。これから真面目に文章講座の通信教育を受けてみるつもりだから、来年ぐらいになったら綾子ちゃんにも読んでもらえる小説が書ける様になるかもしれないよ」
綾子はそれでも未だ自分の意志を貫き通そうとしていた。
「私は何も大文豪の小説を読みたいと思っている訳ではないの。浩司さんの現在の心の内面の一端を知りたいと思っているだけなの」
1階の台所から母の声が聞こえて来た。
「夕食の支度が出来たわよ。二人とも早く下りていらっしゃい」
次回に続く

想い出は風の彼方に(32)

「それにしても、お部屋の中はちょっと収拾がつかない状態ですね。私が少しお手伝いしましょうか」
「そうだな、細かい整理は自分でゆっくりやるにしても、少し手伝ってもらってもらおうかな。僕自身のドジで起した不始末で申し訳ないんだけど」
「いえ、私の参考書を探す為に起きてしまったトラブルですから私にだって責任の一端はあります」
「そう言ってもらうと助かるよ」
「それにしても、改めてこの本の量は凄いですよね。一体何時こんなに本を読む時間があったんですか?」
「そうだな、中2から高2までの大学受験にかかるまでの時かな。部活もやっていなかったし、テレビも見なかったし、本を読む以外に時間をつぶす方法も知らなかったんだ。それに親父とお袋との夫婦喧嘩も絶えなかったし、僕自身も本以外に逃げ場を失っていたんだ。昔ソクラテスが言ったといわれる、こんな格言があるんだ。
『良妻を得れば幸福になる。 悪妻を得ればあなたは哲学者になれる』というものだが、15~17才ぐらいまでの我が家の家庭環境はとても悪かった。30代後半から40代前半まで間に戦後のドサクサで生活の基盤をしっかりと作り上げた親父は、後は道楽三昧で人生の後半を過ごしてしまっていた。
僕は物心が付いてから父親の働く姿を見た記憶が殆んどないのだ。 酒乱でギャンブル狂、女狂い。家に帰る日もあれば、女遊びで何日も帰らない時だってあったのだ。母は女としての体裁から表面的には、毅然としていたが、実際には自殺未遂を3度もしていたのだ。
20歳を過ぎてからの僕は、心の底から父親を憎しみ抜いていた。殺意を抱いていたといっても過言ではないんだよ。そんな僕が哲学書や純文学にのめり込んでいったのも当然だろう。
現実の家庭生活を直視していたら、僕の頭の中は確実におかしくなっていただろう。言い訳にしか聞こえないかもしれないが、哲学的あるいは文学的な妄想の中に自分を置く事で僕は何とか心のバランスを保っていたのだ。
戦後満州帰りの父親は軍隊教育の弊害が全く改善されず、自分に都合の悪い事があると必ず母と私に暴力行為で自分の不都合さを隠蔽した。母はそれなりに戦ったが、僕は押入れの中で震えているしかなかった。出刃庖丁を持ち出す事も稀ではなかった。まだ10代の僕は、そんな父親に反抗する勇気は無く、ただ押入れの中で震えているしかなかった。父親の一時的な怒りで、家中の家具の多くが庭で叩き壊されるのを目にしたのも一度や二度ではなかった。
真面目に働く事が大嫌いな父親は、常に一攫千金を夢見ていた。その分、確かに商才には長けていた。株相場、競馬、小豆相場、その他これと思った儲け話には必ず手を出した。その結果、勝つ事も負ける事も多かった。時代は土地バブルの最盛期で、土地だけ次から次へと購入しておけば資産は勝手に膨大していた。その事と自分の資産能力を完全に父親は誤解していた。そんな父親を見て、あんな男だけには絶対ならないと子供心に固く誓ったものだ。そんな青春期を経た僕は人間の心の実態にあるものは一体何なのかと考えざるを得なかった。そして精神医学に憧れたのだ」
次回に続く

想い出は風の彼方に(31)

「さて次に説明したいのは、この文型のパターンをどの様に応用して行くかとの話になるんだが、ちょっと待ってて、その例題を集めた参考書を探して来るから…」
そう言って、浩司は自分の部屋に戻って行った。2階ので6畳間で本を探し出すのは容易ではない。ぎっしりと本が詰まっていて足の置き場もない感じだ。以前から浩司には妙な性癖があって、勉強に熱中し出すと部屋の掃除から始めるのだ。部活や勉強以外に意識が傾いている時は何故か部屋の中がどんなに汚れていても全く気にならない。
だから彼の両親は、その部屋の汚れ具合を見て浩司の意識が何処に向いているのか容易に判断出来るのだ。普段は6畳の本部屋も哲学書、純文学書それらもロシア文学、フランス文学、ドイツ文学その他に整理整頓されている。それが部活前になったりすると、登山道の地図とか、現地案内図、あるいは合宿中の食糧買出しリストなどが入り混じり、本部屋なのか倉庫なのか区別のつかない時さえある。
まして大学受験の参考書なんかは、殆んど処分している。ただ教養課程の間は英語の授業があったので捨ててはいなかった。しかし今回の夏合宿前の混乱で、本部屋は乱雑を極めていた。目的とする英語の参考書も容易には見つからなかった。椅子を持ち出して頭より高い本箱の上まで探してみた。別にそんな参考書などなくても綾子に英文法の基礎を教え込む事ぐらいは、どうって事もないのだが途中からはムキになって探し出した。
どんな些細な事でも一度決意するとすぐムキになってしまうのも、彼の性癖の一つであった。本箱の上の天井すれすれの所に、やっと目的の参考書「高校生の英文法」が見つかった。椅子の上で背伸びして何とか触れる位置にあった。
思いっきり手を伸ばして、その参考書を取り出しにかかった。手が届いたと思った瞬間、彼は椅子から滑り落ちてしまった。10冊以上は積み重ねてあった書物類も同時に落ちて来た。一階の居間にいた綾子にも、かなりの衝撃音が伝わって来た。
「ドカーン、ガタガタ…!」
10数冊の本が落ちる音と彼が椅子から滑り落ちる音の共鳴音だ、それなりの響きは伝わって来る。
しかし打ち所が良かったのか、浩司の身体は余りダメージを受けなかった。部活でも何度か岩場から滑り落ちていたが、避けるべき急所を外す習性は何時の間にか身に付いていたのかもしれない。
綾子が驚いて二階に上がって来た。母の鈴子は台所で換気扇を回しながら夕食の支度に余念がなかったので、何も気づいていなかったようだ。
「篠木さん、大丈夫。一体どうなさったの?」
「いや、恥ずかしい。英文法の参考書を取り出そうとしたら、高い所にあったので滑り落ちてしまったんだ。こんな醜態をさらけ出して、きまりが悪いよ」
「きまりが悪いなんて、お体は大丈夫。腰なんか打つと後で大変だから…私なんかの為にすみません」
「椅子から滑り落ちたぐらいで、何処か痛くなる様な鈍(なまく)な身体じゃないよ。合宿の度に岩場から滑り落ちて十分に鍛えられているんだから…」
「そうなんですか、ワンダーフォーゲルって云うのも結構危険なクラブなんですね」
次回に続く

想い出は風の彼方に(30)

私は急に真顔になって、
「綾子ちゃん、そんな事より英語の勉強をしなけりや…何しに来たのか意味がないじゃあないか」
綾子は少し舌を出して、
「そうでした、私が変な質問ばかりをするから英語の勉強をすっかり忘れていました。ちよっと、馬鹿みたい…」
「先ずは英文法からしっかりと身に付けなければね。SVOCの5文型の基本パターンから復習して行こうか。学校でやっているね?」
綾子は自信なさそうに、
「はい、少しやった様な…!」
「それでは先ず、SVOCの意味から言ってみて?」
「え~と、Sは主語ですか。つまりSubjectですよね」
「その通りだ、じゃあVはどう言う意味なの」
「動詞のVerbですか」
「うん、良く勉強しているじゃあないか。Oは目的語のObjectだし、Cは補語を表わすComplementだよね。これにMの修飾語を表現するModifierが加わる訳だ。これが「文の要素」と呼ばれるものだ。 この文の要素(S・V・O・C・M)がどのような順番で並ぶのかによって、いわゆる「文型」というものが決まってくるのだ。分かるよね…」
綾子は苦し紛れに、
「はい、何とか」
と、ようやく答えた。そこに丁度、浩司の母が帰って来た。
「まあ、こんな可愛いお嬢さんが家に遊びに来るなんて初めての事だわ。どうかゆっくりしていって下さい」
「有難うございます。突然にお邪魔して申し訳ございません」
「良いのよ、余計な気を使わないでね。今、水ようかんでも出しますから…お嫌いではないでしょう?」
「嫌いだなんてとんでも無い、大好きです」
「そう、それは良かった」
「お母さん、もう分かったから少し席を外してくれない。今は英語の勉強をしているんだから…」
「はい、はい、分かりました」
にこやかな顔で、母の鈴子は台所に引き下がっていった。
「優しいお母さまね、うちの母とは大違い。第一に品と云うものがまるで違うわ」
「君のお母さんだって、良いお母さんじゃないか。お料理だって上手だし…まあそんな話より英語の勉強をしなけりゃ」
「そうですよね、ご免なさい。余計な話ばかりをしていて」
「さて、何処まで話したっけ。そうそう、(S・V・O・C・M)の『文の要素』についての話をしていたんだ。まずは【S(主語)V(動詞)】の1番シンプルな文型だと(誰がどうする)、(何がどうする)などを表現した場合は
I walk.
(私は歩きます)
となるけど、これにO(目的)を付け加えると
【どこに】が必要となり
I walk to school.
(私は学校に歩いて行きます)
と云う表現になるのだ。
ここから話が段々と難しくなるけど、大丈夫だね?」
綾子は欠伸を噛みころしながら小さな声で、
「はい」
と頷いた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(29)

綾子は訝し気に尋ねた。
「どうして、ですか?
こんな難しそうな本ばかり読んでいるなんて、頭の良い証拠じゃあないですか…」
「それは大きな誤解だよ。難しい哲学書ばかり読んでいる人間なんて、多くの場合は心のバランスが取れていないんだ。だから妙に小難しい自己分析をしたり、他人を煙に巻く様な言語を弄(もてあそ)んだりしたがるのだ。
本当に心優しく、他人を思いやる人は馬鹿みたいに訳の分からない言葉で人の心を踏みにじったりはしないよ」
「ふ~ん、そんな物なのかしら」
「だから、学校の教師だって優秀な人程、生徒には分かりやすい授業をする事に心を砕いているだろう。出来の悪い教師に限って、皆んなが眠たくなる様な教科書の棒読みなんかしているだろう」
「そう言われれば、その通りだわ」
「だから毎日が楽しく、充実した日々を送っていれば、僕の様に偏った哲学書なんか読んだりはしないもんだ」
綾子は驚いた顔になって、
「篠木さんって、そんな辛い毎日を過ごしていたのですか?」
「辛いかどうかの感じ方は、人それぞれによって違うが家庭的には恵まれていなかったかもしれない」
「こんな立派な家にお住まいになっていてですか?」
「立派な建物に住んでいる人達が、皆んな幸福であるかどうかは別問題だよ!
小さなアパート暮らしでも幸福な家庭は幾らでもあるだろう」
「篠木さんの仰る意味は分かりますが、でも貴方の家が不幸せだとは私にはとても理解出来ませんわ」
「単純に言えば、経済的には貧しくても親子が慎ましやかな笑みを忘れず心に温もりを持ち続けられる様な家庭を幸福と言うのではないのかな…」
「そんな家なんて、あるんですか?」
「灯台下暗しって、言うでしょう。僕に言わせれば、綾子さんの家なんかそんな温もりのある暖かい家庭に見えるんだがね」
綾子は驚きを隠せずに…
「私の家なんかが、そんな幸福な家庭に見えるのですか。階段にはビール瓶のケースが幾つもかさなってあるし、酒だるの山でトイレさえ自由に開放出来ない時だってあるんですよ、そんな家の何処が幸福に見えるのか私には分からないわ」
浩司は少し笑みを浮かべて
「そんな狭い家の不自由さが、逆に住む人達の心の接近を容易にしやすくしたりする事だってあるんだ。広い家に住んで、皆んなが個室を持って好き勝手な生活をして話し合う事も少ない家庭が幸せと言えるのだろうか、僕にはそうは思わないけど」
「ふ~ん、幸福って難しいんですね」
「人それぞれに考え方が違うからね。要はその人の心の在り方だと思えて仕方がないんだ」
「篠木さんて、難しい本を読んでいるだけあって、話しの内容も複雑なのね」
「そうかな、ただ隣の芝生は青く見えるって、云うだけの事なんだけど…」
「あゝ、その話しなら学校の授業で教わりました」
そう言って、綾子は少し微笑んだ。
次回に続く

想い出は風の彼方に(28)

電話口には母が直ぐに出た。
「お母さん、今から友達を一人連れて帰るから、何か美味しいケーキでも準備して置いてよ。とても可愛い女の子だよ」
電話の母は明らかに狼狽しているようだった。
「女性の方って、どんな方なの?」
「そんな大袈裟な話じゃあないよ。高校時代の吉村の妹だ。彼女の夏休みの宿題を少し手伝うだけの話なんだ。お母さんが心配するなんて何もないよ」
母はかなり安心した口調で、
「そうなの、分かりました。それじゃあ、お母さんは何か美味しい物でも買いに行って来るわ」
「3時近くには帰れると思うから、出来たら夕食も頼んでも良いかな?」
「まあ、そんな若いお嬢さんを遅くまでお引き留めしても良いの!」
「だって、僕は吉村の家で何度も夕食のご馳走になっているんだよ」
「そうなの、今晩はお父さんが遅くまで帰らないから大丈夫かもしれないけど、それでも程々にね」
母はそう不安気に答えて電話を切った。
私が綾子を伴って家に帰り着いのは3時を少し回っていた。彼女は明らかに緊張していた。
彼女は玄関先で靴を脱いで、天井を見上げた。
「随分と素敵なお家ですね。何か自分の家が見すぼらしく感じてしまうわ…」
「綾子ちゃん、それは考え違いだ。家と云うのは建物や見栄えが問題ではない。そこに住む人達の人間同士の温かみが一番だよ」
「そんな物かしら、私には未だ難しくて分からない。でも女の子って、普通はどうしても外見的な物に目が行ってしまうわ」
「まあ、今日はそんな話をしに来たんじゃあないから…先ずは英語の勉強だ。しばらく英語の参考書を探して来るから、リビングで少し待ってて」
「でも、篠木さんのお部屋ってどんなになっているのかしら興味があるわ。ちょっとだけ見せてもらっても良いかしら!」
「そりゃ、僕は構わないけど高校生の君が一人で僕の部屋になんか入って良いのかな。後で吉村に怒られそうだな」
「大丈夫よ、兄なんか私の事にあまり関心がないもの。そんな事より、明日はビールを何ケース仕入れなきゃならない…そんな事ばかり気にしているわ」
「どうも君には勝てないな、それじゃあ少しの間だけだよ」
「何か秘密の部屋を探検する見たいでワクワクするわ!」
「別に何処にでもある汚い男の部屋だよ。尤も時々は母が勝手に掃除しているみたいだけれどね」
「それでは、僕のむさ苦しい部屋にどうぞ」
浩司の部屋は二階のベランダがある角部屋の8畳間と6畳間の二間続きだった。6畳間が本部屋になっていた。その浩司の部屋に入るなり綾子は圧倒された。壁の隅から隅まで所狭しと本の山だ。まるで学校の図書館にいるみたいだ。図書館と比べると空間が狭い分だけ圧迫感がある。
「凄い、これ全部が篠木さんの本ですか?」
「まあ、そうだね」
「全部読んでいるの?」
「大体はね…」
「それにしても医学書は少ないのね。聞いた事もない本ばかりだわ。カント、ヘーゲル、ニーチェ、カミュ、サルトル、ボバワール…何時もこんな本ばかり読んでいるのですか?」
「もしかしたら、僕は精神に異常を来たしているのかもせれない」
私は多少自嘲気味に言い訳をした。
次回に続く

想い出は風の彼方に(27)

夏合宿が終わって東京に帰って来たのは8月16日だった。母は私の顔を見るなり、
「何処も怪我はないのかい。ヒグマとは一度も遭遇しなかったのかい。ともかくお前がいない間、お母さんは生きた心地はしなかったよ」
と、質問の雨だった。その日の夕食はご馳走の山だった。家に帰って2日間というもの食事時間以外、私は殆んど眠り続けていた。
まるで全身の力が抜け切った様である。3日目になって、流石に眠っているのも飽きて来た。
久しぶりに吉村の家に出かけた。
真夏のビール商戦で彼は忙しく駆け回っていた。この夏は一際(ひときわ)暑く、一般家庭でクーラーの置いてある家は稀だった。未だ扇風機が主流の時代である。彼の妹だけが夏休みの宿題に悪戦苦闘していた。特に彼女は英語が苦手だった。彼女は私の顔を見るなり、直ぐに助け船を求めて来た。私の頭の回転も本調子ではなかったが、それでも台所のテーブルで英語の宿題を見た。
「綾子ちゃんね、君は何故英語が苦手なのか分かる」
先ず私は、そう切り出した。
「受験英語の基本は英文法と慣用句のマスターなんだ。その肝心のポイントを押さえずに、ただ英語の教科書だけを漫然と見ていても眠くなるばかりだ。英語は全ての語学の中でも例外の文用例が多いのだ。ドイツ語やラテン語の様に定型的なルールで解釈出来る言語とは土台から違うのだ。それがブロークンイングリッシュとも言われる様に、好い加減な言い回しでも変に通じたりするのだ。しかし受験英語はそうは行かない。英語の独特の言い回しを、より多く習得した者が英語の上達を早くするのだ。適切ではないかもしれないが、『have a crush on you』ってどんな意味だと思う。これも単語だけを追いかけていては何の意味か、さっぱり分からないと思うよ。単語だけで訳すと、『君を押しつぶす』なんて言い回しになってしまうけど、実際の意味は『あなたに夢中なの』と解釈するのが正解なんだ。人間の思考の根源は言語だ。英語を学ぶと云う事は、英語を使用する人間の思考形態を学ぶ事に他ならない。
綾子ちゃん、君は以前に大学に行きたいと行っていただろう。その意思は今も変わりはないの?」
「はい!」
綾子は少し恥ずかし気に答えた。
「だったら、何処の大学に行くにしても英語は必須科目だ。明日にでも僕が使っていた英文法と慣用句事例集を持って来て上げるよ。それとも今からでも僕の家に来るかい。未だ夕食までは数時間はあるから、これから英語の特訓をしても良いよ。君さえ嫌でなければ…」
「本当に私が篠木さんの家に突然お邪魔しても良いんですか?」
「お袋は驚くかもしれないが、君みたいな可愛い子が来れば大歓迎だと思うよ」
綾子は内心の喜びを隠し切れない様に、
「それなら、喜んで行きます」
と、今にも飛び出して行きそうな勢いで言った。
「じゃあ、ちょっと電話を貸してくれる。一応は家に電話をして置くから」
「はい、どうぞ。玄関先にありますから…」
「じゃあ、ちょっと失礼して電話を借りるね」
次回に続く

想い出は風の彼方に(26)

春休みが終わって大学2年生の新学期がスタートした。
大学の授業と部活に忙しい生活に追われだした。この時期はどちらかと言うと部活に多くの時間を割いていた。来年からは4年間の専門課程となる。専門課程の解剖実習が始まると、もう時間に余裕がない。授業時間も一時間増える。青春時代を謳歌するなら、この1年間しかないと多数の先輩から聞かされていたので、根が単純な私は部活の他にクラスメート数名とで作り始めた「同人誌」に熱中していた。2ケ月に一つの作品提出が義務付けられていた。これもかなり忙しかったが作家気取りでいたので苦にはならなかった。初回作は「なおこ」で、予備校時代の失恋小説である。これは悪評だった。ストーリー自体が耽美主義で自己陶酔型だと友人の多くは一顧だにしてくれなかった。
次の作品は「ジャンヌダルクを殺したのは誰だ!」で、15世紀のイングランドとフランスとの戦いをテーマにしたものだが(宗教戦争的な意味合いが強く)、史実の不勉強さと宗教的な考察が曖昧だと指摘され、ストーリー全体の安易さも目立つと酷評だった。それでも懲りずにまた「神々の尾根」を書いた。原稿用紙200枚ぐらいの随筆文で、北海道大雪山縦走3週間の実態記録を書いたもので、これはそれなりの評価を得た。
実際に2年生の夏合宿「大雪山縦走の3週間」は私の5年間(6年生は医師国家試験の為に引退)の部活でも一番厳しかった。僅か3週間の合宿で体重が6kgも落ちた。十勝岳から登り層雲狭に至る、距離が100km以上に及ぶ悪路である。この夏はヒグマによる登山者の遭難も続出して、10数名もの死者を出してマスコミを騒がせた。
後から聞かされた話であるが、祖母が母を叱りつけたらしい。
「息子を医学部に行かせたのは、ヒグマの餌にする為か!」
と言って、泣き叫んだとの事である。
もちろん、登山中はマスコミの騒ぎや家庭内での心配も知らず大雪山の余りに雄大な縦走貫徹に心を砕いていた。所々にヒグマの新しい糞便を何度も目にしたが、何故か自分達の問題としては捉えていなかった。霧で登山ルートを見失う事が多く何日もビバークを余儀なくされ、テントを張る場所も確保出来ず岩山の割れ目で夜を明かす事も多かった。
それでも恐れと云うものは、まるで感じなかった。それよりは晴れた日の大雪山の勇壮さに、天国に至る道を歩み続ける信徒の群れに参加しているかの様な錯覚に浸っていた。
「お~い、雲よ。この大なる天界よ!…私達は明日に向かって確実に生きている」
そんな歓喜に震える日もあった。
そして終着点の層雲峡に下りたった時の感動、幾重にも重なる岩層の織り成す自然の不思議。この世の物とも思えぬ畏敬感で全身は金縛りにあっていた。これは紛れもなく徒歩で縦走した者だけが味わえる至福の思いに違いない。
それが証拠に10数年後、ドライブコースで妻と二人、昔の思い出を求めて層雲峡を訪れた時は、さしたる感動を覚えなかった。
人は額に汗して、真の苦楽を味わえるものかもしれない。
次回に続く