断章(30)

(30)日々の思い
昭和の時代を考える(その23)
一般に「準賠償」は賠償請求の放棄と引き換えに提供される無償供与とされているが、その内容は様々であり、厳密な法的定義は無い。しかし、戦後処理的性格を有する有償供与[無金利・低金利の借款]を準賠償に含むこともある。
例えば通商産業調査会は、日韓基本条約における韓国への円借款と、血債に対する補償として無償供与と共にシンガポールに提供された円借款の2つ(計706億6800万円)を有償の準賠償としている。つまり、外交文書において受け取り国が更なる賠償請求を放棄し、且つ何らかの戦前、戦中の損害を補償する目的の供与であることが記されているものが「準賠償」であると考えられる。
さらに加えれば、明らかに戦後処理的性格を持つ(つまり単なる経済協力(ODA)とは異なる)供与が「準賠償」である。
【朝鮮に対する補償】
韓国からは、個々人に補償を要求する動きが新聞やテレビで報じられている事が多いが、1965(昭和40)年に日本と韓国は日韓基本条約を結び、日本からは無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、民間借款で3億ドルを支払われている。さらに日本が韓国内に持っていた財産を放棄することも含めて、「両国民の間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」とした合意に達している。
民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1.45倍にあたる膨大な金額で、韓国はこのお金の一部を「軍人・軍属・労務者として召集・徴集された」者で、死亡したものの遺族への補償に使い、残りの大部分は道路やダム・工場の建設など国づくりに投資し「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げたのである。韓国は日本から得たお金を個人補償として人々に分配するよりも、全国民が豊かになる事を選択し、それが成功したのである。
近代戦争史においては、敗戦国が戦勝国に「国家賠償」を支払うのが普通のやり方で、戦争で被害を受けた戦勝国の市民一人一人に「個人賠償」するなどは、過去の史実にはない。それを現在、日本政府に個人補償を訴える韓国人はこうした事実を知らないのか、あるいは韓国政府が意図的に操作しているのであろうか?
また日本では原爆の補償について、アメリカに何も求めてはいない。なぜなら、日米は国家間で平和条約を結んだのだから、それ以前のことには遡らないというのが国際法のルールであるからだ。
【中国に対する補償】
中華人民共和国は、1949年の同国の成立にともない、中国の正統政府は「中華民国から中華人民共和国に代わった」と認識している。つまり、中華人民共和国は中華民国の後継国家だ。後継国家は基本的に、それまでの国家(政府)の権利や資産を継承する(負の遺産も継承する)。
従って中華人民共和国は、中華民国が第二次世界大戦の結果とした諸成果を引き継ぐと主張している。つまり、毛沢東や周恩来が日本に戦争賠償を要求しなかったのは「好意」からでなく、出来る立場ではなかったのだ。
それに、中国は実際のところ賠償金などを遥かに上回る満州(日本が投下したインフラ)を獲得し、戦後はこのインフラを根底にして国家基盤を構築して来たと云う事実がある。
【お断り】
「昭和の時代を考える」を、これまで私なりに考察して来ましたが、医師としての本来の仕事とは離れ過ぎていると、多くの方々から批判を受けました。中には興味深いとの賛同もありましたが、やはり医師としての本来の立場に戻るべきかとの反省に立ち、誠に遺憾ながら現在併用で連載しております「診察室からコンニチハ」1本に絞る事にしました。よって「昭和の時代を考える」は今日限りとさせて頂きます。これまでご愛読頂いた読者の方々には心からお詫び申し上げます。

断章(29)

(29)日々の思い
昭和の時代を考える(その22)
【占領した連合国に対する賠償】
占領した連合国に対する賠償とは、サンフランシスコ平和条約第14条で定められているところの日本が占領し損害を与えた連合国と二国間協定を結んで行った賠償のことである。一般に狭義の「戦争賠償」は、この二国間協定による賠償を指すことが多い。この賠償を受ける事ができたのは、以下の2つの条件を満たす国である。
平和条約によって賠償請求権を持つと規定された国は、日本軍に占領されて被害を受けた国と定義された。
すなわち、この2つの条件に外れる国々は、この狭義の「賠償」権をもたない。
サンフランシスコ平和条約を締約しなかった国、または何らかの事情で締約できなかった国は、外れることになる。朝鮮(大韓民国+朝鮮民主主義人民共和国)に関して、韓国臨時政府は日本と戦争状態になく、連合国宣言にも署名していないとしてサンフランシスコ平和条約の署名国となることを承認されなかったため、この賠償を受ける権利はない。
サンフランシスコ平和条約を締約し且つ何らかの賠償請求権を持っていた連合国であっても、それが「日本に占領されて被った損害」に対する賠償のものでない場合は、外れることになる。これは、同条約第14条b項において、日本に占領されなかった締約連合国は全て「戦争の遂行中に日本国およびその国民がとつた行動から生じた請求権」を放棄したためである。
上記2条件に当該する連合国のうち、フィリピンと南ベトナム共和国は1956年と1959年に賠償を受けた。ビルマ連邦(現ミャンマー)とインドネシアはサンフランシスコ平和条約の締約国ではなかったが、1954年と1958年にそれぞれ別途にサンフランシスコ平和条約に準じる平和条約を結んで賠償を受け取った。二国間協定による賠償を受け取った国々は下記の通りである。
フィリピンが1980億円で、日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定が成立。(1956年05月09日)、
ベトナムは140億4000万円で、日本国とベトトナム共和国との間の賠償協定が締結(1959年05月13日)
ビルマは720億 2000万円円で、日本とビルマ連邦との間の平和条約が締結(1955年11月05日)、
インドネシアは803億880万円で、日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定が成立。(1958年01月20日)
以上の合計は3643億4880万であった。
上記2条件に当該する連合国のうち、ラオス、カンボジア、オーストラリア、オランダ、イギリス、アメリカの6カ国は賠償請求権を放棄、または行使しなかった。ただし、イギリスは当時自国領だった香港・シンガポール、アメリカは当時信託統治領だったミクロネシア諸島が日本軍に占領されたことに対する賠償請求権の放棄であるが、シンガポールおよびミクロネシアは後にそれぞれ準賠償を得ている(後述)。中国はイギリスとアメリカとで承認する政府が異なった為、サンフランシスコ平和条約に招かれず締約できなかったが、中華民国(台湾)が別途で日華平和条約(1952年)を日本と結び、その議定書において賠償請求権を放棄した。
*準賠償 
準賠償(sub-reparation)とは、賠償に準じる供与のことを言う。上で述べた狭義の「戦争賠償」である「占領した連合国との二国間協定による賠償」は、サンフランシスコ条約第14条またはそれに準じる平和条約の同様の条項において日本軍に占領された際に被った損害の賠償を受ける権利のある国として指定された場合にのみに与えられた。しかるに、これに外れる国々は占領した連合国との二国間協定による賠償を受けることができない。準賠償は主にそうした国々に対して支払われた。
次回に続く

断章(28)

(28)日々の思い
昭和の時代を考える(その21)
「日本の戦争賠償と戦後補償」
日本の第二次世界大戦後の戦争賠償および戦後補償については、戦争によって損害を与えた国々および人々に対する賠償・補償問題が戦後処理の重要な課題の一つであった。なお項目名では便宜上「戦争」「戦後」としているが、同時期の戦争とは直接には関係ない、補償についても含めて述べる。
それらを含んだ戦争賠償・補償については日本と各国との間で条約・協定等が締結、履行された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上既に決着しているが、敗戦国の日本が戦勝国側(連合国)から一方的に裁かれたとする見解も存在する。
【定義】
戦争賠償(英:war reparation、戦時賠償)とは、戦争行為が原因で交戦国に生じた損失・損害の賠償として金品、役務、生産物などを提供すること。通常は講和条約において敗戦国が戦勝国に対して支払う賠償金のことを指し、国際戦争法規に違反した行為(戦争犯罪)に対する損害賠償に限らない。例えば*下関条約*において清が日本に支払うとされた賠償金3億円なども戦争賠償に含まれる。
*下関条約*
明治28年(1895)日清戦争講和のため、下関で清国の全権大使李鴻章(りこうしょう)と日本の全権大使伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)との間で調印された条約。清国は朝鮮の独立、2億両(テール)の賠償金の支払い、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲などを承認。別に馬関条約とも言う。
一方、戦後補償(英:compensation)は、戦争行為によって損害を与えた人々に対して行われる補償のことで、広義の戦後補償は戦争賠償を包含する。
*一般には、戦争賠償は国家間で処理される問題、戦後補償は被害者個人に対してなされる見舞い金的な要素として言われることが多い。
外務省の調査によると、1945年8月5日現在の在外資産の総額は次の通りである:
地域名 金額(円)
朝鮮 702億5600万円
台湾(中華民国) 425億4200万円
中国 東北 1465億3200万円
華北 554億3700万円
華中・華南 367億1800万円
その他の地域(樺太、南洋、
その他南方地域、欧米諸国等)
                        280億1400万円
合計 3794億9900万円(現在の通貨だと200兆円)
同調査には合計236億8100万ドル、1ドル=15円で3552億1500万円という設定であるが…
これら在外資産は戦後、全て現地の保有となり、この在外資産によって現地の産業や文化に、どれ程大きな貢献したかは知られていない。
連合国捕虜に対する補償 
連合軍捕虜に対する補償とは、サンフランシスコ平和条約第16条に基づき、中立国および日本の同盟国にあった日本の在外資産またはそれに等価の物によって連合国捕虜に対し行った補償である:
日本国の捕虜であつた間に不当な苦難を被つた連合国軍隊の構成員に償いをする意味として、日本国は、戦争中中立であつた国にある又は連合国のいずれかと戦争していた国にある日本国及びその国民の資産又は、日本国が選択するときは、これらの資産と等価のものを赤十字国際委員会に引き渡すものとし、同委員会が衡平であると決定する基礎において、捕虜であつた者及びその家族のために、適当な期間に分配しなければならない。
これにより日本は1955年の取り決めにおいて450万ポンド(45億円)を赤十字国際委員会に支払った。
次回に続く

断章(27)

(27)日々の思い
昭和の時代を考える(その20)
【朝鮮戦争による日本への影響】
*日本の再軍備化への示唆
韓国への米軍支援部隊は当時、日本に駐留していた約7万5000人を即時参戦させた。アメリカ軍はすでに韓国からほぼ撤退しており、韓国内には僅かな数の軍事顧問しか存在せず、朝鮮戦争の勃発では日本での駐留軍を派遣するしかなかった。
そうなると、どうなるか?
日本は戦後GHQによって徹底的に非軍事化を進められていたため、旧日本軍はすでに解体されており、軍事的には空白状態になっていた。
その状況を知ったソ連が東アジアでの勢力を拡大するために日本へ侵攻して来るのではないかと云う事を、アメリカは恐れた。
そこで、アメリカは日本政府の吉田首相に対して、「National Police Reserve」≒「警察予備隊」の設置を命令した(形式上は「許可」)。
朝鮮戦争勃発の翌月の50年7月、マッカーサーは日本政府に対して7万5000人の警察予備隊の結成を指令した。憲法9条に違反する実質的な軍隊が、改憲を経ずにポツダム政令によって創設されたことは注目に値する。先ず警察予備隊は、朝鮮に出兵する米軍の空白を埋めることを直接の目的とし、兵器や装備は米軍によって供給され、訓練も米軍が実施した。訓練を担当したアメリカの大佐は「小さいアメリカ軍」と呼んだ。警察予備隊は52年10月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組され、再軍備が進んだ。
*朝鮮特需
朝鮮特需とは、「朝鮮戦争」によって必要となった在朝鮮アメリカ軍および在日アメリカ軍から日本に対して発注された物資やサービス全般のことを言う。
朝鮮戦争勃発直後の1950年8月25日には横浜に在日兵站司令部が設置され、主にアメリカ軍から日本企業に直接発注する「直接調達方式」により大量の物資が買い付けられた。その総額は1950年から1952年までの3年間に10億ドルとも言われ、インフレによる不景気に喘いでいた日本経済の回復と成長に大きく貢献した。
また、アメリカ軍による直接調達のほかに、在日国連軍や外国関係機関による間接的な調達も存在し、こちらの金額は1955年までの間に36億ドルにものぼると言われている。
同時期の朝鮮特需以外の貿易による輸出総額は年間10億ドル程度であったので、朝鮮特需の規模がどれだけ大きかったかが伺いしれる。
朝鮮特需により立ち直った日本経済は、敗戦直後には生産の極度の低下と悪性インフレによって混乱を極めていたが、1949年にアメリカの特使ドッジ(デトロイト銀行頭取)によって実施された強力な引き締め策によってインフレは収束した。その一方で不況が深刻化したが、まさにその時に朝鮮戦争が起こった。鉱工業生産は50年後半から急上昇に転じ、同年平均でも、前年比22%増、51年は35%増、52年は10%増、53年には22%増と高成長を続け、51年には戦前の水準を回復した。実質でみたGNP(国民総生産)や個人消費も、総額で51年度には戦前水準を超え、53年には一人あたりで戦前の水準を突破した。
1951(昭和26)年9月8日 : サンフランシスコ平和条約締結→連合国による占領が終結、日本は主権回復を成し遂げたが「日本の戦争賠償と戦後補償」と云う大きな問題が残っていた。
次回に続く

断章(20)

(20)日々の思い
昭和の時代を考える(その13)
*ドッジデフレ時代*
ドッジ・ラインとは、アメリカ大統領特命公使として来日した、デトロイト銀行頭取・ジョセフ・ドッジが実施した経済政策である。
立ち直りを見せながらも、いつまでも悪性のインフレが止まらず安定しない日本経済を不安視したアメリカ政府は、荒療治を行なって、日本の経済状態を安定させようとした。
ドッジは、
「日本の経済は竹馬(たけうま)に乗っているような状態だ。竹馬の脚を切らねば倒れてしまう」
と言って、復興金融公庫の債券発行禁止、超均衡予算による財政金融引き締め、統制の緩和、自由競争の促進などを打ち出し、実行させた。
これらは、国の財政健全化と経済の正常化には当然必要な政策であったが、今までインフレが常態化していた日本では、きびしいデフレをもたらした。世にいう “ドッジデフレ” “ドッジ不況” である。
この “ドッジ不況” で、それまでインフレに慣れた経営をしていた企業は倒産し、労働者の失業が数多く発生した。東京証券取引所の修正平均株価(現・日経平均株価)は、85円25銭の史上最安値をつけた。
“ドッジ不況” は、大企業にもきびしい影響を及ぼし、今をときめくトヨタ自動車も、例外ではなかった。
この “ドッジ不況” のとき、トヨタ自動車の当時の社長で創業者の豊田喜一郎は、住友銀行に融資を依頼して断わられ、会社の資金繰りに窮したそうである。
融資を断わるについて、住友銀行側は、
「機屋(はたや・繊維産業のこと)には銭(ぜに)を貸すが、鍛治屋(かじや・自動車などの金属産業のこと)には貸せない」
と言ったと、伝えられている。
占領下の時代、アメリカを始めとする連合国は、日本が二度と軍国化しないように重工業をきびしく制限し、軽工業の国にしようと本気で考えていたと言われていた。住友銀行の貸し出し拒否も、こんな事情が反映されていたのかもしれない。
しかし、この “ドッジデフレ” で、インフレと放漫な経営者は去り、会社にも商店にも堅実経営が戻った。
また為替レートも、1ドル360円と決められ、その後この固定相場が長く続く事となった。
ただ当時、米ドルなどの外貨は、今のように自由に日本円と交換できるものではなく、必要理由のきびしい査定があり、闇ドルの値段は1ドル500円以上との話もあった。
「農地改革」(1946-48)
第二次大戦後の民主化の一環として、日本の指導者と連合国総司令部(GHQ)当局は協力して農地改革(1946-48)を進めた。これは最も成功した占領期の改革の一つとされ、諸外国における土地改革のモデルとなった。改革の目的は、農地を所有しながら自らは耕作をしない地主と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に納める小作農との格差を縮めることであった。農地改革に関する法律は、農地を耕作農民に解放する立場から、一世帯が所有できる農地を家族が自ら耕作できる面積に制限した。特に所有地に住んでいない不在地主からは国がその所有地全部を、北海道以外の地域に住む在村地主からは1ヘクタール(2.5エーカー)、北海道の在村地主からは4ヘクタール(10エーカー)をこえる分を強制的に買収して、小作人に売り渡した。その結果、小作農のほとんどが自作農となり、農民の暮らしは大幅に改善された。
以上は表向きの話しで、実際にはこの農地改革は非常に多くの矛盾を含んでいた。
その矛盾に関しては、次回に考察したい。
次回に続く

断章(19)

(19)日々の思い
昭和の時代を考える(その12)
「財産税の公布」
1946(昭和21)年11月12日
財産税法(臨時法)が公布
GHQの占領下、吉田内閣は財産税法を公布した。
財産に対する課税は今でもある。相続税、贈与税、固定資産税などであるが、戦後のこの時期の ”財産税” は、とてもきびしい臨時税であった。
財産税課税の名目は、戦時利得の没収で、 GHQ(連合国軍総司令部)の指示した
「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」
に基づいて行なわれた。
この年の3月3日の時点で所有していた動産・不動産の合計が、10万円以上の個人に課税されたのである。同一家族で該当者が複数ある場合は、合算された。
1946(昭和21)年11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収される事となった。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりであった。
財産額よる税率 
10万円を超える金額 25% 
11万円を超える金額 30% 
12万円を超える金額 35% 
13万円を超える金額 40% 
15万円を超える金額 45% 
17万円を超える金額 50% 
20万円を超える金額 55% 
30万円を超える金額 60% 
50万円を超える金額 65% 
100万円を超える金額 70% 
150万円を超える金額 75% 
300万円を超える金額 80% 
500万円を超える金額 85% 
1500万円を超える金額 90% 
すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要があった。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷であった。
現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ず、多くのケースで財産が物納された。
物納された骨董品の買い手は日本国内には存在せず、国宝級の美術品が海外に流出して行った。
このとき延納を選び土地を温存し、*ドッジデフレ時代*(次回に解説)の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして生き残れたようだ。
1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家である。
37億4300万円を納め(現在の2兆円弱)、残りの財産は国有財産になった。
秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族は財産税を支払った上に皇籍を離脱させられた。彼らに対しては少しの一時金が支払われたが、直ぐに底をついてしまった。
ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラスチック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうである。
皇族でさえこの状況だから、多くの華族がこの瞬間に致命的な打撃を受けて没落し、路頭に迷う事になった。
1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚したが、その結納金は、なんと400万円(現在の20億円)であった。財産税がなかったら、二人の結婚はなかったであろう。
華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興には役に立ったと思われる。
1948年5月、日本国憲法の制定とともに華族制度は廃止されたが、多くの華族を苦しめ没落させた政府の施策は華族制度廃止の2年前に断行されていたのだ。
次回に続く

断章(18)

(18)日々の思い
昭和の時代を考える(その11)
*極東国際軍事法廷の考察*
インドの法学者ラダ・ビノード・パールのみが
「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」
との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではない。
さらにパールは
「裁判官が戦勝国出身者のみで構成されている事の適切性に疑義を抱き、侵略戦争の責任を個人に求めること」
の妥当性にも言及した。
そして、侵略戦争と自衛戦争の区別。この中でパールは、日本の戦争を一方的な侵略戦争とは断定できないとしている。
この論理の背景には、世界中が侵略戦争に明け暮れていたとの見解がある。
それを侵略戦争が罪であると云うならば、連合国側こそ裁かれる立場にあるとの思考がパールにはあった。
連合国側の勝者の論理でのみ裁判の妥当性を論ずる事に、彼は深い懸念を現したのである。
そして更に、厳密な意味での戦争犯罪の検討をするなら、非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪になると規定した場合、日本への原子爆弾投下を決定した者こそ裁かれるべきであろうとしている。
もちろん、彼のこの様な見解は連合国側の圧倒的多数の判事たちに握りつぶされてしまった。
「公職追放」
軍人だけではなく、戦時中に軍に協力的であったとされる政治家や思想家など20万人が職を解かれ、公職から追放された。政府機関の職に就くことを禁止された人も多く、戦争犯罪人とされた人、大政翼賛会に関与していたとされる人も公職に就くことは許されなかった。
「情報統制」
GHQが最初に行った政策が検閲であった。ラジオ、新聞、雑誌、一般市民発行の本まで厳しく検閲し、軍国主義的なことを掲載しているもの、戦前や戦中の日本を肯定するもの、GHQを批判する内容などは、徹底的に排除された。
「貴族制度の禁止」
昭和22年(1947年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、*華族制度は廃止された。推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。
*華族制度は
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。
この華族制度は以下の様な状況で作られた。1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させたが(版籍奉還)、何の代償もなく、大名が自分の領地を手放すはずはなかった。そして大名には軍事力があったので、大名と藩士の主従の関係をどう断ち切るかが問題であった。
つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功した。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生している。
5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられた。
1884(明治17)年、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられた。
当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけで、加賀100万石の前田家は、侯爵に過ぎなかった。薩長の藩閥政治の影響であろう。
この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことである。
伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられた。
旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立していた。
学習院は、昔は華族学校と言って、皇族と華族の子供を教育する学校であった。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められていた。
公爵と侯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証され、伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がなかった。
この様にして華族は、80年間、日本の上流社会を形成していた。
次回に続く

断章(17)

(17)日々の思い
昭和の時代を考える(その10)
1945(昭和20)年
・労働組合法制定
1946(昭和21)年 
・(1月)*昭和天皇の人間宣言*
 1946(昭和21)年1月1日,昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」によりみずからの神格性を否定した宣言である。冒頭に五か条の御誓文を掲げるなど,戦前の天皇制を完全に否定したものではなかったが,一般的には天皇の現人神を否定した詔書として受けとめられ,「天皇人間宣言」とよばれた。この詔書はGHQの意を受けて幣原首相が外国を意識して英文で起草したことでもわかるように,天皇の神格性の否定によって,天皇の戦争責任や天皇制の廃止を免れようとするもので,その効果を十分に果たした。さらに,同年11月3日の日本国憲法の”象徴”天皇制を先取りするもので,総司令部の民主化政策に適応させて戦後の天皇制の維持をはかったものであった。
・(11月3日)日本国憲法公布
(施行は1947年5月3日)
この公布により天皇が神格化された大日本帝国憲法は正式に効力を失った。
しかし、新憲法は*GHQ*の監督下で作られたもので日本国民の自主憲法とは言い難い。にも関わらず2018年の今日まで「平和憲法」の名の元に日本国民は、この憲法を圧倒的な支持で受け入れている。外国では、この様な例は見られない。どの国でも時代の流れの中で部分的に憲法改正は行われているのだが、他国の支配の下に作られた憲法であるにも関わらず、憲法改正は即、軍国主義への道と言うばかりに改正の議論そのものが、日本ではタブー化されている。
その精神構造は、戦前の「国民精神総動員」の真逆的な発想ではあるが、一切の議論をも封じ込めてしまうと云う点では、何か類似性を感じてしまうと思われてならない。
*GHQ*
連合国最高司令官総司令部は、第二次世界大戦が終結する際に、ポツダム宣言執行のため日本を占領して間接的に統治を行った、連合国の日本での司令本部で、日本ではGHQという通称が使われた。連合国軍総数20万人のうち、12万人が横浜市に上陸した。最高司令官・マッカーサー元帥が飛行機から日本(厚木基地)に降り立つ姿は、日本の歴史に刻まれている。
*日本を統治
1945年9月、第二次世界大戦が終結して間もなく、日本がポツダム宣言を受諾した。平和条約発効までの6年9ヶ月の間、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦、カナダからなる連合国軍が日本の間接統治権を与えられ、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が最高司令官として着任した。それまであった日本の政治機構を引き続き利用し、日本政府に指示や命令を出す間接統治であった。命令の多くはポツダム命令の形で公布や施行され、政府にとって連合国軍からの命令は絶対的で超法規的なものであった。
日本はGHQにより軍事機構と国家警察が廃止された。さらに政治の民主化、政教分離、財閥の解体、農地解放が行われ、これまでの日本の国家を完全に改造した。この間、日本に外交権はなく、内政のみ日本が行っていた。
【GHQの政策】
組織の一番の目標は、小国ながらも世界を敵に回した日本の軍事力を解体することにあった。それまで軍国主義だった日本から軍隊をなくし、民主的な国家の形成を目指した。
「軍事裁判」
GHQは日本を占領直後から、第二次世界大戦の指導者の検挙に着手した。東条英機元首相ら数十名が逮捕され、A級戦犯として*極東国際軍事法廷*において、国際法に違反した法律による裁判で、東条英機以下7名を絞首刑、残りの多数を禁固刑などに処した。
次回に続く