診察室からコンニチハ(93)

この年の冬は、私の病院でもインフルエンザ患者さんが続出して療養型病棟では点滴の使用量が増大していました。1ヶ月間での点滴使用による薬剤費の病院支出は赤字になっていました。私は心密かに、この痩せ我慢を何時までしなければならないのだろうと案じていました。しかし、その甲斐があってか1ヶ月間の死亡者はゼロでした。
保健所からの医療監視(医師を含めた)の人々は、カルテのチェックを終え驚いていました。療養型で、これほど手厚い医療行為をしている病院は見た事がないと感嘆の声さえ上げていました。その保健所スタッフから、
「こんな手厚い医療行為をしていたら、病院経営は赤字になってしまうでしょう」
とまで、言われました。私はニッコリと頷いて…
「医療には、時にボランティア行為も必要でしょう」
と、答えました。この結果、保健所内での病院の評価はかなり上がったと思います。私も自分の痩せ我慢が報われた思いで満足感に満ち溢れていました。その後も室料差額のアップを続け、病院の経常利益も徐々に上がって行きました。患者さん方の中には、自己負担額が高いと云うので他の病院に転院する人たちもいました。
しかし、他に転院した患者さんの半数近くは数ヶ月もしない間に私の病院に戻って来ました。高くても医療サービスがまるで違うからと云う理由が多かったのです。私は大いに気を良くして、自分の経営方針に間違いなかったと確信して行きました。そんな私の確信は平成14年ぐらいまでしか続きませんでした。バブル崩壊後の日本経済の低迷が国民の年収を徐々に低下させていたのです。平成2年から始まったバブルの崩壊はゆっくりと日本経済を悪化させて行きました。「失われた10年」とか、昨今では「失われた20年」とまで言われ出し、さらに加速度的な少子高齢化の進展に伴って医療費は増大し、国民の医療費負担額も増えて行ったのです。かつては高齢者の医療費は全額無料の時代もあったのに、今では夢の様な話になっています。
その結果、国民の多くは高齢者に対して良質の医療よりは安価な介護を求め出したのです。そして「看取り」と云う言葉も流行り始めました。私は「看取り」と云う概念を否定している訳ではありません。ただ安易な経済的な理由で「看取り」と云う思考に流れて行く発想に疑問を抱く時があるのです。
次回に続く

診察室からコンニチハ(92)

私の理想作りを目指していた病院運営は、厚労省の度重なる医療費抑制政策で平成10年、ついには赤字決算となりました。昭和62年と比べると平成12年には薬価差益が1/10以下までに落ちたのです。こうなると、看護料(看護師に払う人件費)や医学管理料(医師に払う人件費)の厚労省が定めた基準価格ではそれらの人件費を補充出来なくなりました。それら不足分は薬価差益で殆ど補っていたのですから。
病院開設15年目にして、初めて赤字決算を迎えました。多くの病院でリハビリ部門などの不採算部門は、どんどん削減して行きました。その結果、リハビリのスタッフは給与の大幅なカットが都市部を中心に実施されました。その結果、彼等は老人ホームなどに移動して行きました。しかし、ここが我慢のしどころと考えて私の病院ではリハビリスタッフの給与カットは言うまでもなく、人員削減も一切しませんでした。
またリハビリに対する医療費抑制政策も手厳しく、私の病院でもリハビリの保険収入が大きく落ちました。しかし、このリハビリ抑制政策は前述しました様にマスメディアの攻撃に合い、厚労省も1年未満で幾らか緩和政策に方向転換を余儀なくされました。方向転換と言っても少しばかり緩和された程度です。これでは10人からのリハビリスタッフの給与が賄える訳ではなかったのです。その後は更に緩和されましたが、当面は厳しい赤字経営となりました。
さて、この経営危機をどう乗り切るか悩みに悩みました。結局は新たに病棟を作り、この新病棟は全て二人部屋とし室料差額を大幅に増やしました。またリハビリ室も作り直して、リハビリを強化して病院の評判を良くする事に努めました。
私の病院は急性期病棟と療養病棟の2本立てのケアミックスでした。急性期病棟は出来高制で、行った診療行為の保険請求が全て出来ました。一方の療養病棟は定額制で診療行為にかかわらず一律の保険収入です。その為、一般的には療養病棟での医療行為は極力控えようとする意向が強くなりました。
ある年の冬にインフルエンザが大流行して、老人ホームや療養型の病院でかなりの死亡者が出ました。マスメディアがこの死亡者の多さに驚いて一斉に騒ぎ出しました。厚労省も、このマスメディアの報道に動かされ全国の老人ホームや療養型病院に臨時の医療監視が入りました。当然ながら私の病院にも医療監視がなされ、カルテの徹底的なチェックが実施されました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(91)

当時40才を少し過ぎたばかりの私は、まだ若かったのでしょう。どうしても理想を追求する思いが強かったのです。ですから職員から反発を受ける発言も、しばしばしました。子育てと主婦業を懸命ににこなしているナースの多くから見れば、私の言っている事などは苦労を知らない「坊や」のタワゴトのように聞こえたのかもしれません。
また当時の私はそんな理想論を医師会に行っても、声高に語っていました。
医師の教育カリキュラムに「介護訓練」を半年間は組み入れるべきだと。
そうすれば介護の人材確保に繋がるし、医療上は常にイニシアチブを取っている医師こそ介護の辛さをもっとも知るべきだと思ったからです。
でもそんな私の話に耳を傾けてくれる医師は一人もいませんでした。
その時の私はまさにドン・キホーテでした。
参考の為に『ナイチンゲール誓詞』を載せておきます。
われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わんーーー
わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。
われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、
悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。
われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。
わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。
われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。
以上です。
*フローレンス・ナイチンゲール*
イギリスの看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。
生年月日:1820年5月12日
死没:1910年8月13日 (90歳)
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診察室からコンニチハ(90)

父親のリハビリは急性期の治療が終了した4日目頃から徐々に始めました。
医療保険診療のリハビリは、それなりの制約がありました。病院でのリハビリは、その制約の下で規制に従って行うだけでした。厚労省も時代の要請に応じて、幾度となくリハビリの緩和と抑制を繰り返していました。医療費抑制政策の下で、厚労省も一時は極端なリハビリ抑制政策を実施した時期もありましたが、マスメディアの強い反発に合って現在はかなり合理的な医療保険制度に落ち着いています。しかし完全に患者さん本位のリハビリシステムになっているかと言いますと、まだ疑問は残ります。
ただ父親のリハビリは、かなり積極的にやりました。父親自身もかなり頑張り、さすがにタバコも止めました。もともと負けず嫌いの性格でしたから、それも幸いしたのでしょう。日曜日も私を呼びつけリハビリの介助をさせました。その結果、父親は2ヶ月程で左上下肢の麻痺も大幅に軽減して無事退院となりました。
しかし、この様なリハビリは父親だけではなく、もちろん父親にする程までには出来ませんでしたが、患者さんの意欲とご家族の熱意があれば、時には採算性も忘れたリハビリを行いました。これは私の病院経営する基本姿勢でしたから。さらに生活保護の患者さんでも、他に病室がなければ個室にも入院させました。父親の場合は別にしても、日常的な私のこの様な経営方針は時に職員から大きな反発を喰らいました。こんなドンブリ勘定の運営をやっていて、病院の経営が成り立つのかとの批判です。何故そんな批判を職員から受けなければならないのだ。そんなイラ立ちから月一回の全体朝礼で私は、
「あなた方はナイチンゲールの誓詞を忘れたのか?何のための医療なのか」
と、豪語しました。このスピーチには多くのナースから強烈なブーイングを受けました。
「この医療経営の厳しい時代に、何を一人で*ドン・キホーテ*みたいな事を院長は言っているんだ。皆んな生活する為に一生懸命なんだから、それで働いていると云うのに…」
*ドン・キホーテ*
スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説。 騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった郷士の話
次回に続く

診察室からコンニチハ(89)

病院拡張計画が頓挫して、半年以上は仕事に対する意欲が低下し、私はゴルフに熱中していました。毎週のように病院スタッフの誰かを誘ってはゴルフ場に出かけていました。病院開設6年目の5月のゴールデンウィークには、常勤医師たちと軽井沢で春のゴルフ合宿に興じていました。3泊4日の予定で出かけたのですが、初日のプレイが終わったところで病院から連絡が入りました。父親が脳梗塞で倒れたと云うのです。未だ69才でしたが、ヘビースモーカーで1日に50本以上はタバコを吸っていました。10年以上前から糖尿病で薬も服用していましたので、脳梗塞の発症は予期していた事でした。
これまでにも再三再四、禁煙勧告をして来ましたが、医師と言っても所詮は自分の息子ですから聞く耳を持ちません。私も36才まではタバコを吸っていましたので、あまり強く言えなかったのかもしれません。
ともかく私一人が、急ぎ車で戻りました。他のドクターにはそのままプレイを楽しんでもらう事にして…
帰りの車の中で私は泣いていました。何と親不孝な息子であるのかと、自責の念に駆られていたのです。
病院に戻ったのは夜の9時頃でした。直ぐに父親のCT画像を確認しました。右中大脳動脈領域に梗塞像が認められました。
それを見て幾らかホッとしました。少なくとも言語障害は併発しないだろうと考えたからです。そっと父親の病室に入って行きますと、
「やっと来たのか…」
と云う視線で私を見つめました。
私はそっと父親の手を握り…
「大丈夫だよ、すぐ元気になるよ」
と言って、励ましました。傍らで心配そうに黙っている母親も私の顔を見て、何かを言いたそうにしていましたので病室の外に誘って病状の説明をしました。
「左上下肢の麻痺は少し残るかもしれないが、言語障害は起きないよ」
と、慰める様な説明を加えてタクシーで家に帰ってもらいました。私も病院の裏側にあった自宅に戻り、遅い夕食を取り着替えをして病院に戻りました。それから3日間は父親のオムツ交換、身体の清拭、食事の介助の全てを自分一人でやりました。親孝行の真似事をしてみたかったのです。
これまでにも子供の入院で10日以上の付き添いをした事はありましたが、大人の排便排尿の処理や身体の清拭の大変さは比べものにならないくらいの重労働でした。医師の仕事など介護の仕事に比べたら、どれだけ楽なんだと深く考えさせられました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(88)

病院開院1年を経て、里中医師を常勤に迎えてから全ては順調に動き出しました。ベッドも125床の満床になり、外来患者も少しずつ増え出しました。看護婦その他の職員もほぼ充足し、経常利益も2年目からは黒字化となりました。この頃から私は大学病院に戻りたいなどと云う思いを抱かなくなっていました。里中医師とは部活の長い付き合いもあったので、始めから無二の親友の様に接していました。彼は公私にわたる私の如何なる相談にも応じてくれましたので、年齢こそ私の方が上でしたが実質は兄の様な存在でした。
さらに彼が常勤になった事で、大学の同僚の態度に変化が生じて来ました。
大学病院ではホープ的存在であった彼が私の病院に入職した事で、
「そうか、里中が勤める病院なのか?」
と云う印象が大学の研究室仲間にも強くなり出し、パートで外来や当直に応じる医師が少しずつ増え出し、病院の内部体制はより充実して来ました。
しかし里中医師の在職期間は2年間の約束なので、さらなる常勤医師の確保に手を抜く事は出来ませんでした。最初に手がけたのは、パートで来ている医師が常勤医になる様に心を砕く事でした。開設3年目からは、私の自由時間も増えて来ましたので、殆ど忘れかけていたゴルフにも時間を割ける様になりましたので、目を付けていたパート医を盛んにゴルフへと誘い込みました。もちろん飲みに行ったりもしました。里中医師もゴルフが好きだったので、いつも一緒でした。そんな努力も実って、彼と約束した2年間が過ぎる頃には常勤医が2名増え、外来診療時間も午前診だけではなく、午後診も開き入院べッド数も125床から145床に増床しました。さらに神経内科や循環器の特診も新たに設け、内科に関しては市中病院に負けない体制が強化されました。病院運営が順調に進んで来た所で、私は病院拡張を望み隣接地の買収に乗り出しました。そんな買収交渉の矢先に、突然横浜市は新たな病床数の増加に歯止めをかけて来ました。
厚労省の医療費抑制政策を受け、横浜市が全国で最初に病床数の増加を禁止して来たのです。病院の許認可権は都道府県知事(横浜市は特別行政区)にありますので、如何に厚労省が全国的に病床数規制の網をかけても各都道府県の考え方により規制実施は何年も違っていたのです。それがよりによって横浜市が全国で最初に病床数の規制に乗り出して来たのですから、当時の私にすればショック以外の何ものでもありませんでした。
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診察室からコンニチハ(87)

1年後輩の里中(仮称)医師が週に1日だけバイトに来る様になって3ヶ月目に、彼の方から突然…
「2年間だけなら常勤医になっても良いですよ」
と、言い出して来たのです。大学病院での医局生活が嫌になったと漏らしていました。自分の書いた医学論文を先輩医師に横取りされ憤慨していたのです。だから2年間の準備期間を置いて、田舎に帰って開業する意志を固めたと言うのです。その間の2年間だけなら常勤医になっても良いと言ってくれたのでした。彼の個人的な事情はともかく、私は狂喜して泣き崩れてしまいそうでした。これで何とか自分の病院が生き残れると、心の底から安堵したのです。常勤医がそれまでの60才代の女医さん一人では、どうにもならなかったのです。
昭和40~50年代にかけて医学の進歩は急激でした。私より10年以上年配で開業した医師の多くは、その急激な医学の進歩に悪戦苦闘していました。エコー、CTなどの普及は昭和50年代から始まったもので、それ以前の医学教育では未知の医療機器だったのです。生化学的な検査も日々新しい知見が加わっていました。さらに新薬も次から次へと開発され、感染症のみならず、統合失調症(精神分裂病)まで完治する報告が相続いていました。正に私は「段階の世代」そのもので、この世代の前後で医学は大きな変貌を遂げていたのです。総合病院などで最新の医学情報に接しながら医療に従事していた医師はともかく、それ以外の医師では時代の流れから取り残され、医師免許の名義貸しに準じる仕事や、船医もしくは無医村などで医療活動を余儀なくされる人も多かったです。
そんな事情で、常勤医が60才代の女医さんと二人では出来る限り自分でやるしかなかったのです。通常の肺炎程度の入院は彼女に任せるにしても、それ以外の難しいケースは私が診る事になりました。その結果、里中医師が常勤医になるまでは月曜から土曜までの午前の外来診療は全て自分でこなし、入院患者も80人以上を一人で診ていたのです。それは肉体上の疲労と云うよりは生理的な限界に達していたのです。それが里中医師の登場で私の仕事は半減したのです。正に地獄に仏を見るような思いでした。
次回に続く

診察室からコンニチハ(86)

病院開設時の数ヶ月間は混乱に次ぐ混乱でした。大学病院から引き抜いて来た看護主任も、そんな混乱の中で早くも退職届けを出して来ました。新しい看護婦が何人も入職して来ましたが、何もかもが落ち着かない職場では辞めて行く看護婦も数人ではききませんでした。常勤医は私以外に60才過ぎの年配の女医さんが一人きりで、後はパートの医師で何とか遣り繰りしていました。
開設時の1年間、外来診察は午前中だけでしたが、その外来は全て私一人でこなしていました。昼食後の2~3時間は新規の職員面接と、新たな職員確保の為の戦略会議で過ごしました。
入院患者さんの回診は、外来診療の合間と午後4時からの1時間。そして患者さん夕食後の午後6時から消灯時間の9時までに済ませ、それからカルテ整理が始まります。検査結果のチェック、治療方針の再検討などの仕事が終了するのは午前1時ぐらいでした。夜勤当直は週に3回、私一人で頑張っていました。年配の女医さんには週1回の当直をお願いして、残りは大学の後輩に頼んでいました。その女医さんが当直の日には、毎週のように大学の研究室に出向き、同僚の医師たちを誘い合わせ飲みに出かけました。何とか彼等と打ち解け、常勤医とまで言わなくてもパートだけでも良いから少しでも私を助けてくれないかと口説いていたのです。その内、大学の部活で1年後輩の里中(仮称)医師が週に1日だけなら手伝ってくれても良いと言って来ました。これは大きな戦力でした。里中医師は、将来は教授になっても良いような逸材でした。医学的にも彼から学ぶ事は多かったのです。亀の歩みにも似た速度でしたが、病院内部の人材確保は着実に進んでいました。
病院開設の1年間は、また後悔の連続でした。何故こんな大それた病院運営など手がけてしまったのだろうかと…。
いま置かれている立場から考えると、大学病院の医局生活は夢のような時代に思えたのです。ただ患者さんを診て、医学の勉強だけをしていれば良かったのですから。それに比較して、病院運営では医療に関わる時間は4割ぐらいで、後は職員集めや経営効率の反省さらに税務対策にまで頭を痛めなければならなかったのです。何もかもが未体験の分野で、空想で病院開設を夢見ていた状況とは、その苦悩は余りに違っていたのです。毎日見る夢の多くは、大学病院での医局生活でした。あの時代に戻れるなら、今すぐにでも以前の生活に帰りたいと幾度考えたか分かりません。
次回に続く