診察室からコンニチハ(131)

では、免疫力を上げるにはどうすれば良いのでしょうか?インターネットには色々な方法が推奨されていますが当てにならない情報もたくさんあるので注意してください。世の中には商業主義な宣伝広告も多いのです。
免疫力を上げたり、がんを予防したり出来る事が証明された特定の食べ物やサプリメントは未だありません。
常識的に考えるならば、バランスの取れた食生活とか、無理のない運動とか、ストレスのたまらない生活、規則正しい睡眠などが挙げられます。しかし、そのどれもが科学的に十分な証明がされた訳ではありません。
ただ喫煙の習慣には、かなりの発癌性が認められるとの統計学的なデータは国立がんセンターでも報告されています。喫煙習慣の本人だけではなく、同居している家族の受動喫煙も大きな問題になっています。
また常習性の飲酒は、大腸癌との因果性もありそうです。さらに現在わが国では100歳以上の超高齢者が7万人を数えていますが、この中で何とか自立で生活の出来ている人は1%前後、つまり700人程度なのです。
さらに興味深いことに、この1%の超高齢者は、生涯を通じて殆ど(皆無に近い状況)で、喫煙や飲酒をした事がないと云うデータもあるのです。もちろん普通に言われている俗説、飲酒も2合まではとか、赤ワインなら大丈夫だとか言った話は統計学的には何の証明もされていません。私の知る限り、90歳ぐらいまでは何とかこの根拠のない俗説もある程度は支持されるかもしれません。
私の医師としての経験上の考えに過ぎないのですが…
以上の事から推察して行けば、やはり喫煙や飲酒の習慣がない健康的な生活が、癌にはなりにくい長寿の要因だと言えるのでないかと思えてなりません。
規則正しい睡眠、適度な運動、バランスの取れた食生活、円満な家庭生活(つまりはストレスのない生活)などが、免疫力を高める生活であると考えても、医学的な証明は未だないものの、それほど的外れな見解ではないと思うのです。
私自身がそれほど健康的な生活をしているのかと云う話は置いて、喫煙だけはさすがにしておりませんが、飲酒については人様にとやかく言える立場でない事は正直に告白します。
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診察室からコンニチハ(130)

レジオネラは日本の感染症法では*四類感染症に指定されており、全数把握対象疾患となっています。年間1,000件以上の発症例があると報告されています。この数字は日常生活を送るなかで発症する肺炎の頻度としては、看過できるものではありません。レジオネラ症はときに重篤になり死につながることもあるため、注意が必要な病気です。
【全ての医療機関が報告すべき疾患】
は《一類感染症》から《五類感染症》まであります。《一類》が最も重症で入院の強制や隔離が伴なう例もあります。それ以外にも《指定感染症》など、新型インフルエンザなどで世間の耳目を集めたりする例は、マスメディアを通じて皆さま方もご存知かと思います。
さて、これら感染症ですが自然治癒するものと重症化しやすいものがあります。その差は何でしょうか?
それは免疫機能の違いと言っても過言ではないでしょう。では免疫機能の違いとは何でしょうか。簡単に言えば個別の体力の違いとか、環境要因の差でしょうか。
一口に感染症と言っても免疫機能を傷つけやすいエイズ(AIDS :acquired immunodeficiency syndrome、後天性免疫不全症候群)とか、免疫機能をあまり傷つけないインフルエンザウイルスとかによって自然治癒の可能性は大きく違って来るのです。
さらには年齢による基礎体力によって免疫機能に大きな違いが出て来るのは、すでにご存知の通りです。通常の成人では直ぐに治ってしまう肺炎などでも、高齢者では重症化しやすいと云うのは加齢による免疫力に差が出て来るからです。
例えば感染症とは違いますが、なぜ私たちが癌にかかるのか?
かかりやすい人と、そうでない人がいるのかを考えてみましょう。癌家系となどと云う言葉もありますが、本当にそうなのでしょうか?
そこには家系と言うよりは環境的な要素が大きく作用するような気がしてなりません。家族の誰かが喫煙習慣があるとか、偏った食生活に家族全員が陥っているとかも考慮する必要があるのではないでしょうか。
また幾つかの学説によれば、
「健康成人でも、がん細胞は1日に5000個以上は発生している」という報告もあるのです。その後に、がん細胞ができても、通常は免疫系によって排除されてしまうものの、免疫の攻撃からすり抜けるとがん細胞が成長して命を脅かしてしまうのです。ですから免疫力を上げる努力が必要なのです。
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診察室からコンニチハ(129)

その後ケンブリッジ大学のロバート・エドワーズ教授は2010年にノーベル生理学・医学賞を受賞し、ルイーズは「素晴らしいニュースです」とコメントを寄せていました。
ルイーズの父ジョンは2007年に死去。母レズリーは体調を崩してブリストルの病院に入院し、2012年6月6日に64歳で亡くなりましたが、5人の孫に恵まれていました。
2018年5月20日、日本に招かれルイーズは六本木ヒルズで講演しました。その折に『読売新聞』によるインタビューで、自分は「ごく普通」の人間であるが、体外受精への理解を深めるため、マスメディアで積極的に話すようにしている旨を語っていました。
☆1979年 - アメリカ合衆国のオハイオ州の小児病院で、先天性の脳性麻痺の乳児に対する胃瘻経管造設手術方法として、従来の全身麻酔による開腹手術と比較して、低侵襲・低負荷・短時間で造設可能な、局所麻酔と内視鏡による、PEG: Percutaneous Endoscopic Gastrostomy(内視鏡による経皮的胃瘻経管造設術)が、Dr. Jeffrey Ponsky, Dr. Michael Gaudererにより開発されました。
☆1980年 - WHO第33回総会において天然痘撲滅宣言が行われました(最終症例は1977年、ソマリアにおいて)。これが疾病制圧の最初の例となりました。
☆1981年 - B型肝炎ウイルスの最初のワクチンが開発されました。
☆1982年 - HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の発見。
発見の発端となった米国のエイズの最初の報告は、1981年5月18日のNew York Native という男性同性愛者の新聞が、同性愛者の肺炎について述べていたものです。その症例は*CDC (アメリカ疾病管理予防センター「アメリカしっぺいかんりよぼうセンター、英語: Centers for Disease Control and Prevention:CDC」に報告され、CDC 発行の *MMWR(Morbidity and Mortality Weekly Report)は、米国疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDCが毎週報告している感染症情報)に発表されました。
そして、一般報道の第1号は、1981年6月5日 Los Angeles Times の記事でした。「ゲイ男性に肺炎」の見出しで、ロスアンゼルスやニューヨークの 男性同性愛者に原因不明の重い肺炎が発生している 事を伝えたものです。この肺炎は後にエイズ患者の多くの死因になったカリニ肺炎(現在では、ニューモシス ティス肺炎、Pneumocystis pneumonia、PCP)のことでした。実はこの報告以前には、めったに出ない症例でした。
☆1981年 - B型肝炎ウイルスの最初のワクチンが開発されました。
☆1986年 - C型肝炎ウイルスの発見。さらに*レジオネラの発見と続きます。
*レジオネラ症とは、レジオネラ・ニューモフィラ(Legionella pneumophila)を代表とするレジオネラ属菌により引き起こされる感染症です。「在郷軍人病」と呼称される場合もあります。病気の発症様式として、肺炎が引き起こされることがあります。
レジオネラ属菌は、土壌や水などに広く分布する細菌で、温泉や噴水、加湿器などに潜んでおり、旅行シーズンと一致してレジオネラ症が増加することが知られています。温泉施設での集団感染例も報告されています。
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診察室からコンニチハ(128)

☆アシロマ会議の発端は組み換え技術を開発したポール・バーグが腫瘍学者のロバート・ポラックにその危険性を指摘されたことに始まります。最初は反発したバーグでしたが、ポラックに説得され、米科学雑誌サイエンスにジェームズ・ワトソンらなどと連名で遺伝子組み換えのガイドラインに関する国際会議を行うことを呼びかけました。この会議はアシロマの国際会議場で開催され、会議は「生物学的封じ込め」によって合意をみました。また各国はこの会議に基づいて「物理学的封じ込め」などのガイドライン制定も行いました。日本では「組換えDNA実験指針」が取り決められました。
☆遺伝子組み換え生物による生物多様性の破壊を防ぐためにカルタヘナ議定書が2003年11月21日に締結されています。日本ではこれに対応するための国内法(カルタヘナ法)が制定され、組換えDNA実験指針に代わって規制の中心としています。
☆生命倫理の観点から科学者が自ら束縛を許容した背景には、当時の分子生物学者には戦後に核物理学から転向した者が多く、自分達の科学技術が原子爆弾に応用されたことへの反省もあったと思われます。
現在の生物学・生命科学は様々な倫理的問題を潜在的・顕在的に抱えており、アシロマ会議は生物学における倫理規制の古典的な例として引き合いに出されることが多いのです。
☆1978年 - 世界初の体外授精児(ルイーズ・ブラウン)誕生。
*初の人工受精児は父ジョンと母レズリーの間に産まれました。2人は9年間子供を授かろうと努めていたものの、レズリーの卵管に異常があったため自然妊娠はかなわず、体外受精に望みを託しました。この体外受精技術は、ケンブリッジ大学のロバート・エドワーズ教授と婦人科医パトリック・ステップトーが12年に渡る研究の末に完成させたもので、1977年11月10日に母体から採取された卵子を体外受精させ、2日半後、受精卵を母の子宮へ移し、その後は普通に成長して行きました。
この技術には非難も多く、ロンドンでは連日集会が開かれました。一方で、自宅には祝福する手紙も多く届けられていました。
☆1978年7月25日午後11時47分、イングランド北部のオールダム総合病院で、帝王切開により世界初の体外受精技術による子供が誕生しました。出生時の体重は5ポンド12オンス(2608グラム)でした。ルイーズと名付けられた子供の誕生はその後、不妊治療の大きな希望となり世界中の注目を集めました。
両親は婦人科医のステップトーにミドルネームの命名を依頼しました。ステップトーは「これから全世界の人々と喜びを分かち合う」ということで「Joy(喜び)」と名付けました。
4歳の頃に両親から産まれた時のフィルムを見せられて事情を説明され、他の人と違う方法で産まれてきたことや常にマスコミが興味を示してくる理由を理解したと言われています。
彼女は成人して看護師をした後、2002年3月に警備員をしていた男性ウェズリー・マリンダーと出会い、2004年9月4日に結婚。ブリストルの教会で行った結婚式にはエドワーズ教授も招待されました(婦人科医パトリック・ステップトーはルイーズが10歳の時に他界)。
2006年7月11日、ルイーズが自然妊娠していることが発表されました。2006年12月21日に男の子を出産し、2013年には次男を出産しています。
ちなみに、ルイーズの妹ナタリーも1982年、体外受精で誕生しています。ナタリーは1999年5月、最初に子供を産んだ試験管ベビーとなり、「体外受精で生まれた女性は将来、健康な子供を産むことができない」というそれまでの懸念を覆しました。
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診察室からコンニチハ(127)

FDAのシプラチンの抗ガン剤認可後から、1979 年には1055もの他の白金化合物が調べられましたが、シスプラチンを上回るものを見出すに至りませんでした。しかしシスプラチンは大きな腎毒性によって最大投与量が決定されるため、より腎毒性の少ない白金製剤が摸索され、1989 年にカルボプラチンが、日本 ではネダプラチンが開発されています。また、2番目の問題点として、耐性が非常にできやすい性質を有するため、交差耐性の小さな白金化合物が検討され、名古屋市立大学の喜谷喜徳教授が開発したオキザリプラチンが 2002 年にFDAから認可され、2008 年には 13 兆ドルの売り上げを示しました。2009 年には油性白金化合物を油カプセルに封入したミリプラチンが肝癌用に発売されるに至っています。
☆1973年 - ポール・ラウターバー(米)、ピーター・マンスフィールド(英)と共に*核磁気共鳴画像法の研究を発表して、MRIによる画像撮影に成功しています。
*核磁気共鳴画像法(かくじききょうめいがぞうほう、英語: magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴(nuclear magnetic resonance, NMR)現象を利用して生体内の内部の情報を画像にする方法で、磁気共鳴映像法とも言われています。二人は2003年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
☆1975年 - アメリカ合衆国で*アシロマ会議が開かれ、遺伝子組み換えのガイドラインが議論されました。
*アシロマ会議 (Asilomar conference) は遺伝子組換えに関するガイドラインが議論された会議で1975年に開催されました。アメリカ合衆国カリフォルニア州アシロマにおいて開催されたことからこう呼ばれています。28か国から140人ほどの専門家が参加しました。科学者自らが研究の自由を束縛してまでも自らの社会責任を問うたことでは科学史に残ります。
科学者の中には無限の可能性を手に入れたと驚喜する者がいる一方、この新たな技術が重大な危険性をはらんでいることを指摘する者もいました。
例えば大腸菌のように人の体内で生育する細菌が新たな病原性を獲得した場合、それらは容易に広まりうる可能性があります。またこの技術は細菌兵器などに応用される危険性も含んでいます。生物によるこのような災害をバイオハザードと言いますが、当時公害に関する規制は強化されつつあったものの、生物実験施設に対する規制はなかったのです。
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診察室からコンニチハ(126)

☆その後の日本では、和田心臓移植から再び心臓移植が開始されたのは31年後の1999年2月28日におこなわれた大阪大学チームによる心臓移植でした。和田教授の、免疫学を無視したと取られてもやむをえない強引な心臓移植手術の強行が日本の心臓移植、ひいては臓器移植の遅滞を招いたとの批判もあります。臓器移植という医療は、社会風土、倫理、人生観、宗教、博愛精神、などさまざまな要素から成り立っており、この心臓移植一件で、臓器移植の遅滞を招いたと結論付けるのは議論の余地がありますが、少なからず影響を与えたのは事実でしょう。
☆1968年 - 米国でX線CT装置が開発されました。
CT装置を開発したのはハンスフィールドですが、当時のハンスフィールドは英国の EMI会社の技術者であり、そこの中央研究所でパターン認識などの研究に携わっていました。1967年、ハンスフィールドは外部から測定したデータから物体の内部構造を知るという研究を行っていました。いわゆる「画像再構成」です。そのとき使用した線源は γ 線源でした。データ収集に何日間も要し,断層像の再構成には大型コンピュータを使って 2 時間以上かかったとい います。やはりγ線源では線量不足でした。そこで、線量を増やすためにX線管が使われました。当時のCTスキャナは、EMIスキャナと呼ばれていました。
イギリスの EMI社で 1972年に実用化されたことから,こう呼ばれたのです。現在では種々の改良が施され,頭部のみならず,全身臓器の診断を行える機種も開発されています。
【豆知識】
EMI社に所属していたビートルズの記録的なレコードの売上が、CTスキャナを含めたEMI社の科学研究資金の供給元だったとも考えられるため、CTスキャナは「ビートルズによる最も偉大な遺産」とも言われています。
☆1970年 - 風疹の最初のワクチンが開発されました。
☆1972年 - 抗がん剤シスプラチンの臨床試験が始まりました。シスプラチンは物理学者バーネット・ロゼンベルグ 博士(米国、1926-2009)が1965年に大腸菌への電場の効果を見るために、培地中に白金電極を立てて電圧をかけたところ、大腸菌が白金電極周辺に糸状に変化しているのを見つけ、電場の効果ではなく何らかの化合物が大腸菌に影響をもたらしたとのセレンディピティ(偶然に思いがけない幸運な発見をする能力)から研究を進め、1971年にそれがシスジアンミンジクロロ白金化物であることを突き止め、シスプラチンと命名しました。当初のvivo(生体内) 実験では大きな腎毒性のために臨床への応用は断念されかけましたが、投与前後の生理食塩水投与で腎毒性が軽減されることがわかり、1978 年に FDA(US Food and Drug Administration) から抗がん剤として認可されました。
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診察室からコンニチハ(125)

*和田寿郎を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームは、1968年(昭和43年)8月8日に日本初、世界で30例目となる心臓移植手術を実施しました。ドナーは21歳の溺水事故を起こした男子大学生で、レシピエント(ドナーから臓器を提供される人)は心臓弁膜症の18歳の男子高校生で、和田によれば「多弁障害」を抱え人工弁置換術では根治できないとされる患者でした。
手術は約3時間半をかけて明け方に終了しました。レシピエントの意識障害はなかなか回復しませんでしたが、やがて意識回復。8月29日には屋上で10分間の散歩をし、その回復振りをマスコミに披露しました。その後、一般病棟に移りましたが、9月に入ると徐々に食欲不振に陥り検査の結果、輸血後の血清肝炎と診断されています。
術後において症状が現れていたと言われ、意識混濁の症状も進みはじめたレシピエントは10月に入って一旦、小康状態を発表されましたが、手術後83日目の10月29日に食後に痰を詰まらせ、長時間にわたる蘇生術の甲斐もなく急性呼吸不全で死亡したと医師団により発表されました。
【和田心臓移植事件(わだしんぞういしょくじけん)】
「心臓移植後の経過」
レシピエントの死後、それまでくすぶっていた疑惑が一気に噴出しました。それは胸部外科が発表したすべての事実を否定するほど多岐にわたるものでした。同大第二内科から人工弁置換術のため転科してきたことを隠蔽し、さらに多弁障害ではなく僧帽弁だけの障害で、二次的に三尖弁の障害はあるが、これらは第二内科が依頼した弁置換術で治癒の可能性があったため、このレシピエントがそもそも心臓移植適応ではなかった可能性が発覚しました。第二内科の教授は、少年がリウマチ熱で弁疾患を患っていたことは認めましたが、移植の必要性については否定しています。転科前の第二内科による診断内容と、胸部外科による診断内容は、ほぼ同時期に診断がおこなわれたにもかかわらず相当の隔たりがあったことが疑惑に拍車をかけました。
ドナーの検視時(死亡確認)に心臓提供者だという事実が警察に伝えられず、詳細な検査を監察医から受けることなく火葬に付されてしまっています。このため死の真相解明は不可能となり、数時間後に和田教授みずから、警察に連絡を取り事情を説明しましたが、時間が経過していたため病理解剖は出来ませんでした。後の調査で、和田教授がドナーとレシピエント双方の主治医を務めていたこと、また心臓外科医である彼が、専門外の脳死判定を行ったことが問題視され、ドナーが本当に脳死だったのか疑う声も出ました。
一方、レシピエントの死後、彼の元の心臓が3ヶ月以上にもわたって行方不明になり、病理解剖学者の手元に渡ったときには、検索前にもかかわらず何者かが心臓中央部から切断しており、さらには4つの弁もばらばらに摘出されており、心臓移植適応であったかどうかが問題になりました。
1968年12月、和田心臓移植は大阪の漢方医らによってついに刑事告発されました。1970年夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪のすべてで嫌疑不十分で不起訴に終わりました。札幌地検はこの捜査のために、3人の日本を代表する医学者達に各一人ずつ1つの項目について鑑定書作成を依頼しましたが、それらは終始曖昧で決断を下しかねているような論調で、すべての鑑定人に対する再聴取が必要なほどでした。
1973年3月23日、当時の心臓移植手術の妥当性に関して日本弁護士連合会の警告も受けました。
当時、札幌医科大学整形外科講師の地位にあった作家の渡辺淳一は、この心臓移植を題材に地の利をいかして関係者からくわしく話を聞き、『小説心臓移植』(のちに「白い宴」と改題)を発表しています。綿密な調査で知られる吉村昭も心臓移植を追った小説『神々の沈黙』の中でこの手術に関して触れており、後にその取材ノートともいえる『消えた鼓動』を発表しました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(124)

☆1965年 - フランク・パントリッジ(Frank Pantridge, 北アイルランド)が、最初の携帯用の細動除去器を導入。
☆1967年-流行性耳下腺炎(*ムンプス)の最初のワクチンが開発されました。
*ムンプスは長い間、子供が普通にかかる病気で、 発熱や唾液腺の腫脹を起こすが、重要な病気とはみなされていませんでした。ムンプスが注目されたのは軍隊でした。ムンプスは、成人がかかると、子供では稀な睾丸や膵臓などの炎症という、やっかいな病気を合併する事が多かったのです。感染力が強いため、ぎゅう詰めの兵舎や訓練キャンプで、ムンプスは急速に広がりました。そして、睾丸が腫れるため、ムンプスは淋病に次ぐ性病とみなされていました。
 第1次世界大戦では、ムンプスはフランスに遠征した米陸軍の兵士の活動を妨げた最大の原因となった様です。その際のムンプスによる入院は、1,000 人あたり55.8 人(総計 23 万人)であったと言われています。ムンプスで失われた活動時間は、総計 300万時間と推定されました。
さらに1939年、第2次世界大戦が始まった際、米国保健省が第1次世界大戦中に軍隊で発生した感染症の状況を調べたところ、ムンプスは、死亡の主な原因ではありませんでしたが、兵士の戦闘活動に大きな影響を及 ぼしていたことが明らかになっていました。そこで、米国政府は、インフルエンザに次ぐ重要な病気として、ムンプスワクチンの開発を、国立衛生研究所(NIH) のカール・ハーベルとハーバード大学のジョン・エ ンダースに要請しました。
☆ 1967年12月3日にケープタウンのグルート・スキュール病院で、南アフリカ共和国の心臓外科医*クリスチャン・バーナード(Christiaan Neethling Barnard)により心臓移植手術が行こなわれ成功しました。これは交通事故によって脳死状態となった24歳の女性の心臓を55歳の男性ルイス・ワシュカンスキー(1913年 – 1967年12月21日)に移植したものですが、術後18日目に肺炎で死亡しています。
さらに1968年1月2日にはフィリップ・ブレイバーグ(1909年5月24日 – 1969年8月17日)に対して2回目の心臓移植手術を実施し、術後19ヶ月間(593日)の生存に成功しました。
*クリスチャン・バーナード(Christiaan Neethling Barnard, 1922年11月8日 - 2001年9月2日)は、南アフリカ共和国の心臓外科医師。世界初の心臓移植を成功させたことで知られています。ケープ州のビューフォート・ヴェス出身。ケープタウン大学医学部で医師資格を取得後、研究員として勤務。1956年にアメリカ合衆国ミネソタ大学へ留学し、心臓外科の先駆者的存在だったクラレンス・ウォルトン・リレヘイの下で研鑽を積む(ほぼ同時期に日本初の心臓移植を実施した*和田寿郎もリレヘイの下で指導を受けていました)。
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