*JCS*

Japan Coma Scale(ジャパン・コーマ・スケール、JCS)とは、日本で主に使用される意識障害の深度(意識レベル)分類である。
Ⅰ.覚醒している(1桁の点数で表現)
0 意識清明
1 見当識は保たれているが意識清明ではない
2 見当識障害がある
3 自分の名前・生年月日が言えない
Ⅱ.刺激に応じて一時的に覚醒する(2桁の点数で表現)
10 普通の呼びかけで開眼する
20 大声で呼びかけたり、強く揺するなどで開眼する
30 痛み刺激を加えつつ、呼びかけを続けると辛うじて開眼する
Ⅲ.刺激しても覚醒しない(3桁の点数で表現)
100 痛みに対して払いのけるなどの動作をする
200 痛み刺激で手足を動かしたり、顔をしかめたりする
300 痛み刺激に対し全く反応しない

JCS Ⅲー200などと表す。
つまり痛み刺激で手足を動かす程度の意識レベル

迷子の医者(36)

6月2日(土曜)
あさくら病院での十七日目
麻薬のアンペック坐薬(30mg)の一日三回使用が充分な効果を発揮し始めて来た。疼痛の訴えもなく食事も取れず一日中ウトウト寝ている。補液量は最低限の520mlで生命維持量としてもかなり少ない。
それでも呼吸状態は、また少しづつ悪化している。マスクでの酸素濃度は6Lまで増やしていたがSpO2は92~93%を維持するのがやっとだ。
午後2時過ぎに母は突然目を開け、
「あんたも自分の体に充分注意し頑張って生きて行きなさいよ」
と言って、真っ直ぐ私の顔を見た。
はっとして、私は母の手を取った。
しかし、何事も無かったかの様に母はまた眠ってしまった。
死の瀬戸際まで子供を思う気持ちの母に、私は急に幼な子に戻って
「おかあさん、死んじゃ嫌だ!嫌だ!ぼくのおかあさん、おかあさん!」
と泣き叫びたい衝動に駆られた。
しばらくして私は医者としての冷静さを取り戻す。
母の死期は思った以上に早いのではないかとの不安から、親戚中にその事を電話で報告する。
「どんなに保っても今月一杯かもしれない」と、告げる。
しかし、そこに何の意味があるのだろうか。そんな報告を親戚にする必要があるのか。この核家族化した時代で親戚とは何であるのか。私の中で妙な疑問が湧いた。
でも、それは私の個人的な見解であって母の考えは違うと思う。私の世代と違って母は、小まめに親戚付き合いをする人だった。そんな母の意志を尊重するなら、やはり母の病状の変化は報告すべきだと考え直した。
人は誰しも、その人生の中で三回は多くの人達の噂に上ると言われている。
一度目は誕生の時、
「誰々さんの所に可愛い赤ちゃんが産まれたらしいよ、かなり難産だったらしいけど今は母子共々元気だって」
と云う話はよく聞かれる。
二度目は結婚の時である。
「新郎新婦ともお似合いで、とても良い結婚式だったわよ」
と、式に出席した人達の多くが語る。
三度目が挽歌の時である。
その死を悼んで棺(ひつぎ)を挽きながら哀しみの歌を歌う。現代社会では、この様な風習は失われているが…
その挽歌の時が母の身に日一日と迫っている。
6月3日(日曜))
あさくら病院での十八日目
今朝は10時過ぎに起き出し朝食を取る。午後1時病院に出向く。
母の呼吸状態は改善しない。マスクでの酸素濃度は6L、SpO2は94%と昨日とほとんど変わらない。もちろん食事は一切受け付けない。37.3°Cと微熱が
出て来た。一日中ウトウトしているが、時々は目覚める。
午後3時前に母は一度目覚め、
「もうすぐ良くなる、もうすぐ良くなる」と、
小声で呪文のように一人つぶやいていた。そこに母の生きる執念を感じたが、医者である私は全くの無力だ。
母を労る言葉さえ見つからず、その痩せ細った手を握りしめている事しか出来なかった。
明日に続く

迷子の医者(35)

5月31(木曜)
あさくら病院での十五日目
父親の余りの発言に私は怒り狂っていたが、長年連れ添った妻のその変わり果てた姿に父親なりに強い衝撃を受けていたのかもしれない。
生来が単純で、思った事は直ぐ口に出してしまう父親であるから自分の中の不安を、母を失ってしまうかもしれないと云う精神的な動揺を、あの様な言葉で表現したのかもしれない。
それにしても私の父親への怒りは、なかなか収まらなかった。
しかし、それとは別に感動的な嬉しさもあった。山藤婦長が、あさくら病院に転院以来、母の病室に毎日の様に果物を運んで来ていると云うのだ。
それを母に聞かされて、私は目頭が熱くなって来た。それも、ただ運んで来るだけではなく冷蔵庫の中を毎朝、改めて母が何を食べたかをチェックして、常に補充を欠かしていないと云うのだ。
かつて妻の典江が体調不良で、あさくら病院に数日間入院した時に山藤婦長の看護を見て感動の余り、
「まだ本物の看護婦さんがいるのだ!
婦長さんが黙って横にいるだけで体の痛みが薄らいでい行くから、不思議よね」と言った事を、
私はしみじみと思いだした。
6月1日(金曜)
あさくら病院での十六日目
午前4時、病院からの電話で起こされる。母の疼痛が強いのでナースから指示を仰ぎたいとの連絡だ。
「ボルタレン坐薬50mgの使用で様子を見て」と頼み、
また直ぐに寝てしまう。母がどれだけ疼痛で苦しんでいるかを考えるより、自分の睡魔に負けている。
午前8時50分に出勤。母はウトウト眠っている。ボルタレン坐薬が効いている様だ。そんな母の寝姿を見て、私の心も落ち着いた。
パート医、外村医師のアドバイスで点滴の補液量を極力少なめにして520ml
までに抑える。
「下手に麻薬の使用量を増やすより補液量を少なめにして脱水症に持って行った方が、生命現象が低下し疼痛が軽減されますよ」
と云うのが、彼の見解だ。
確かに雪山で遭難し、そのまま凍死して行く状況は、以外と苦痛を伴わないとも言われている。
患者さんの栄養状態を良くすれば、それに伴って癌細胞の増殖はより活発化し、癌患者の苦痛を強めるだけだと云うのは、よく知られた事実だ。
だから脱水症もしくは餓死に近い状況にゆっくりと持って行くのも、癌末期患者への優しい労りに満ちた医療行為とも言える。
医学もかつては、広い範囲の中で哲学の一分野と考えられた時代があった。宗教学と同一線上に置かれた時代もあったのだ。それは共に永遠の謎の神秘を秘めているから…。
人の生と死、神の国はあるのか!
肉体が滅んでも魂は残るのか!
医学だでは救えない人の生命!
誰が救うのか…ましてやその魂を!
自分の中で生涯の命題を
また自問自答している
15才の年からの自分への
果てしなき問いかけ…
性癖とも言うべき自己存在への疑問
人は何の為に生きるのか?
19才の時の初めての自殺未遂
大学受験に失敗し、淡い恋も消え去り
生きる意味を求めても答えは得られず
悶々と過ごした青春の日々…
今、母の死を目前にして
忘れかけていた私のかつての性癖が
自己存在への疑問が…
ぐるぐると空回りしている。
明日に続く

迷子の医者(34)

妻と娘が運動会に出かけた後も2時間以上は寝ていた。ともかく全身がボロ切れの様に疲労が蓄積している。
それでも午前10時40分には何とか起き出し、一人朝食を取る。
午前11時45分、病院に出勤。母が病気で倒れるまでは土日は休みにしていたが、この2ヶ月近くは一日の休みも取っていない。
それにしても今日の母の呼吸状態は逆戻りしている。鼻腔からの酸素濃度を2Lから4Lに上げてもSpO2が90%前後がやっとだ。
間質性肺炎の再発か、癌性胸膜炎の増悪か、ともかく胸部レントゲンを撮ってみる。昨日より胸水が少し増えている。一度減量した利尿剤を再度増やして様子を見る事にした。
5月27日(日曜)
あさくら病院での十一日目
昼過ぎ、妻と娘の三人で病院に出向く。母の呼吸状態は昨日よりは軽快している。利尿剤の増量が効いたみたいだ。尿量も2300mlもあった。
鼻腔からの酸素濃度は昨日と同じ4LだがSpO2が90%から98%と著しく改善していた。娘の香子に、
「おばあちゃん、早く元気になってね」と言われ、
母は嬉しそうに孫娘の手を握りしめていた。妻の典江は病室の絵を新しく買い求め、明るく花一面を飾り立てた20号程の絵にした。
「典ちゃん、有り難う!」と、
母は妻に礼を言った。妻も母が、自分の買い求めて来た絵が気に入ってもらえた様なので嬉しそうだった。
妻と娘は午後1時半頃に二人で戻って行った。母の呼吸状態は良くなったものの、次は便通コントロールと云う問題が残っている。
胸腺癌の浸潤で周囲の胸骨や肋骨が徐々に破壊されている。その為の疼痛も日々増大している。結局は麻薬による疼痛の軽減を目指すしかない訳だが、麻薬は一般的に胃腸の動きを著しく弱める作用がある。
この為に極度の便秘状態が誘発されてしまう危険が大きい。つまり麻薬の使用量と便通コントロールの調整は、それなりに厄介な問題なのだ。
5月28日(月曜)
あさくら病院での十二日目
母の呼吸状態は安定しているが、精神的には「うつ症状」が強く出始めて来た。食欲も少なくなり、見舞いに来る親戚や孫たちとも余り話をしたがらない。疲れ切った眼差しを見舞い客に、ただボーッと向けているだけだ。
麻薬による作用もあるだろうが、それだけでもなさそうだ。
もう、この押し寄せる病魔との闘いに疲れ果てたのかもしれない。
5月29日(火曜)
あさくら病院での十三日目
母の呼吸状態は安定している。
鼻腔からの酸素濃度は3LでSpO2が97%と穏やかに推進しているが、母の精神的な落ち込みは厳しくなるばかりだ。あれだけ話し好きの母が、殆ど口を効かない。胸腺癌の病巣も拡大している。
午後3時半、父親が母の見舞いに来る。
そのベッドサイドで余りに無神経な発言をする。母の意識が充分に覚醒しているにもかかわらずだ。
「人間、死んで逝く時はこんなにも惨めな姿なのか!」と、
言い出した。如何に80才の老父とは言え、その常軌を逸した物言いに私は逆上した。自分の父親でなければ、確実に手を上げていただろう。
50年以上も連れ添った夫に、そこまでの言われ方をした母の心情はどの様なものであったのか、怒りを通り越して哀しみで私の心は震えた。
明日に続く

迷子の医者(33)

その日の夕方、北山大学の野村教授に私から抗議の電話を入れる。担当医だった吉田医師しか居なかったので、仕方なく彼に退院直前の野村教授の診断の間違いを指摘して教授自身からの謝罪を要求する。
5月24日(木曜)
あさくら病院での八日目
母の病状は落ち着いている。鼻腔からの酸素濃度は3LでSpO2は96%で順調だ。朝方、野村教授から謝罪の様な電話を受けるが真心が感じられない。
「先生、電話で詫びを入れて済ます積もりですか。母の病室に来て心からの謝罪を述べるべきでしょう」と、
私はやや硬い口調で教授に申し入れた。大学と云う権威の上に胡座(あぐら)をかいて母の許に謝罪に来ないなら、私は教授を告訴する積もりでいた。
5月25日(金曜)
あさくら病院での九日目
午後2時、野村教授が謝罪の為にあさくら病院にやって来る。院長室で、この数日間の母の胸部CTを並べて見せる。
北山大学で見せてもらった右肺野全域が真っ白になっていた写真とは大違いである。私から口火を切った。
「先生が、あの時ラッシュなどと言った所見は明らかに間違いでしょう。癌細胞の急激な浸潤ではなく、放射線照射後の間質性肺炎だったのでしょう。だから私のステロイド療法で、こんなにも右肺が正常に近い状態に戻ったのではないですか!」
教授は私の示したCT所見を丁寧に見て
「汗顔の至りです。先生の仰る通りです。返す言葉が全くありません」
と言われた。ここまで明確に自分の非を認められると、それ以上はなかなか糾弾しにくいものである。
そして母の病室に入り、母の手を取って一言
「立派な息子さんを持って幸せですね」と、話した。
母も嬉しそうに頷いていた。
何か教授の方が役者が一枚上手の様な気がしないでもなかったが、これで事は収める事にした。
それに一様は学会の大御所と言われる野村教授が、ここまで遜(へりくだ)って来たのだから、同じ医者としてこれ以上の追求は自分の品位を落とすだけかもしれないと考えた。
昨今のただ金欲しさの、少し首を傾けたくなる様な医療訴訟を目の当たりにしている私から見れば、これ以上の追求は医療人としては逆に恥ずべき行為とも考えた。
アメリカ流の謝罪は心の問題ではなく、金銭の大きさが誠意であると云う考え方が支配的だ。しかし私はその様な考え方に馴染めなかった。
午後3時、野村教授を病院玄関まで見送る。彼の社会的地位を考えれば充分な謝罪がなされたと、私は受け取りこれ以上の言及は避ける事にした。
昨日、常勤医の桜井医師からのアドバイスで400mlの輸血をしてみた。
「貧血の有無にかかわらず、ヘモグロビン量を増やせば、酸素運搬が効率的になるので呼吸状態は楽になるはずです」と言われ、
そのまま輸血を実施してみたら彼の言う通り、今日の母の呼吸状態はすこぶる良い。鼻腔からの酸素濃度2LでSpO2が97%だ。
5月26日(土曜)
あさくら病院での十日目
小学二年生、娘香子の運動会だ。昨晩私が寝付いたのは午前3時頃で、とても運動会に出かけて行く元気がない。
幼稚園の年少から始まって5度目の運動会だが、今回が始めての不参加だ。
妻と娘が小学校に出て行くのを夢の中で聞いていた。
明日に続く

*間質性肺炎*

間質性肺炎(かんしつせいはいえん)とは、肺の間質(肺の空気が入る部分である肺胞を除いた部分で、主に肺を支える役割を担っています)を中心に炎症を来す疾患の総称です。特発性肺線維症(単に肺線維症ともいう)など多様な病型を含んでいますが、その多くは原因が不明であり、また治療も困難な疾患です。肺は血液中のガス(酸素、二酸化炭素)を大気中のものと交換する臓器であり、大気を取り込む肺胞と毛細血管とが接近して絡み合っています。この肺胞の壁(肺胞壁)や肺胞を取り囲んで支持している組織を間質といいます。

通常、肺炎といった場合には気管支もしくは肺胞の炎症であり、その多くは細菌やウィルスなどの病原微生物の感染によるものです。間質性肺炎の場合は、肺胞壁や支持組織から成る間質に生じる原因不明の炎症であり、一般の肺炎とは異なった症状や経過を示します。間質性肺炎では、炎症が進むと肺胞の壁の部分(肺胞壁)が厚くなり、肺胞の形も不規則になって、肺全体が固くなります。その結果、肺のふくらみが悪くなり、肺活量がおちると同時に、酸素の吸収効率も悪くなってゆき、息苦しくなったり、咳が出たりします。進行すると、肺がさらに縮み、一部は線維性成分の固まりとなり、その部分は肺として機能しなくなります。肺全体の機能が落ちて、血液中の酸素が不足し、日常生活に支障をきたす状態を呼吸不全といいます。間質性肺炎の種類によってはこの呼吸不全までは進まないタイプのものもあり、残りの部分で十分に呼吸を続け、日常生活を送ることが可能です。

迷子の医者(32)

母の病室は見舞い客が多かった。
親戚中の人間が来た感じである。午後2時頃から入れ替わり立ち替わり10数名以上の人出だ。
通常の病院であれば、病人の安静を考え面会規制をする所だが、どの人達も顔見知りの叔父や叔母たちばかりである。私より目上の親戚に帰ってくれとは言いにくいものがある。
母の呼吸状態は昨日に比べ悪くなっている。マスクでの酸素濃度も7Lから10Lに逆戻りしている。それでも多くの見舞い客に囲まれ母は嬉しそうだ。
5月21日(月曜)
あさくら病院での五日目
5月18日からの私の捨て身とも云える治療法が、母の呼吸状態を一気に改善して行った。右肺野全域に浸潤していた癌病巣と言われていた所見が、ほぼ消失していたのである。
この日の胸部レントゲン写真を見て、私は自分の目を疑った。
「何だ!奇跡でも起きたのか…あるいは癌そのものが最初から存在していなかったのか?」
ともかく私は狐につままれた感じであった。母の酸素濃度も10Lから3Lと大幅に減量出来、SPO2も96%と素晴らしく呼吸状態が安定していた。
食欲も向上し、病院で出された物を半分近くは食べられる様になって来た。
怪我の功名であろうが、この驚くべき病状の軽快はただ嬉しくて仕方がなかった。何か自分で自分を褒めてやりたくなる気分だった。しかし何故、こんなにも劇的に母の病状は良くなったのか、ステロイドの大量投与が効いたのか、それならステロイドがどうしてドラマチックに効いたのか、その時の私には未だ分からなかった。
それでも母の病状が良くなった事には、どの様な理由であれ感謝すべき事態であった。
5月22日(火曜)
あさくら病院での六日目
母の病状は、かなり持ち直したものの、未だ油断は出来ない。父と妹は私が昨日に見せたCTの写真を見て、母の病気が全快した様な舞い上がり方だったが、そんな単純に私は喜べなかった。呼吸状態は昨日と変わらず今日も安定している。食欲も上々である。
5月23日(水曜)
あさくら病院での七日目
呼吸器外来のパート医、外山医師が、この数日間の私の疑問に答えてくれた。母の奇跡的な病状回復は、奇跡でも何でも無く、ステロイドの大量投与で*間質性肺炎*が軽快しただけだったのである。
北山大学で放射線照射を行った結果、その副作用として間質性肺炎が合併していたのだ。北山を退院する直前、野村教授から受けた説明
「ラッシュですな!…この年令でこんなにも急速に癌細胞が増殖するなんて!」
と云う話は全くの誤診であった。
北山大学では放射線照射後の間質性肺炎の合併を見落とし、ラッシュなどと云う的外れな見解に終始していた。
私の中でフツフツとした怒りが込み上げて来るのを、どうにも抑え切れなかった。
「胸部外科の第一人者」が、
聞いて呆れると云う思いが、私の胸の中で付きまとって離れなかった。
これまで母に与えられた不必要な苦しみを考えると、北山大学の野村教授を告訴すべきかとまで思い悩んでしまう。
明日に続く
*間質性肺炎*
についての解説はトップページに記載されています。

迷子の医者(31)

5月17日(木曜)
北山大学からあさくら病院へ
自分の病院での午前の外来診察を終え、事務長の運転で山藤婦長と午後1時に北山大学に向かう。午後2時15分北山大学の母の病室に着く。
母は思った以上に元気だった。もちろん呼吸状態が改善した訳ではない。
鼻腔からの酸素濃度は5L、脈拍数120前後でバイタルサイン(生命兆候)は決して良くない。
ただ母は、この権威だけの大学病院よりは自分の息子の病院で、その最期を迎える事に安心感を覚えたのかもしれない。
結局、北山大学での一ヶ月間の入院は何の治療効果もなく、ただ母を苦しめるだけの結果になってしまった。
少しでも良質の医療を求めて、多大な謝礼とコネを使い過ぎる程に浪費したが、何の意味もなさなかった。
淡い期待だけを抱かされ、医者の私が何かペテン師に欺かれた様な気分だった。この様な大学と云う権威の許で、一体どれだけ多くの患者さんが失望を味わった事か、改めて考えてしまう。
せめて北山大学の救急車で、山藤婦長と同乗してあさくら病院まで母を送ってもらったのが、唯一の慰めだった。
一時間程で、あさくら病院に着く。
そのまま203号室の特室に運びいれる。その間も酸素濃度5LのままでSPO2は90%前後と変化はなかった。
病院からの移動で母は疲れ切ったみたいで、殆んどウトウトしていた。
夕食を食べる気力もなく寝ている。
ここからは内科の医者として、私の全エネルギーを注いで、母の終末医療に当たるべき決意をする。
5月18日(金)
あさくら病院での二日目。母の病状は悪化するばかりである。鼻腔からの酸素濃度も5Lから10Lの最大濃度に上げてもSPO2は92%がやっとだ。
こうなったら一か八かの勝負に出るしかない。胸水を減少させる為に利尿剤を大量に投与し、混合感染防止を目的に抗生剤の併用、最後にステロイド
(プレドニン60mg)のダイナミックな使用で癌細胞に付随する炎症所見の掃除を目指し、如何なる副作用も省みず、私としては最後の攻撃に出た。
ともかく私の知り得る医学知識を総動員した。
母は目前に迫った自分の死を今は確実に意識している。
「一泊でも二泊でも良いから、実家の成城学園に帰り身辺整理をしたい」
と云う、そのわずかばかりの希望さえ適えて上げられそうにない。
5月19日(土曜)
あさくら病院での三日目
母の尿量は2200mlと順調だ。利尿剤の大量投与が少し効いている。
栄養改善の為にアルブミン製剤(タンパク質)の点滴も補充した。
呼吸状態が最悪期からは少し改善している。マスクでの酸素濃度が10Lから7Lに減量してもSPO2は96%と良好だ。癌性胸膜炎の根本治療が出来る訳ではないが、私なりに母への親孝行の一部でもしたい思いで、考えられる限りの治療計画をあれこれ立てていた。
午後になって孫たち(私の先妻の娘)が二人見舞いに来る。私の娘たちは大学生活の事やクラブ活動の話などを盛んにしている。母も楽しそうに聞いている。20才前後の若さと元気さが、春のそよ風に乗って病室に運びこまれたかの様である。このまま母の病状は一気に快方へと向かうのではないかと錯覚を抱かせる様な元気さだ。
私の治療法より、孫娘たちの笑顔が母の病気には効果があるのかもしれない。
明日に続く