診察室からコンニチハ(107)

☆1587年 - 明の龔延賢(きょう えんけん)が医書*『万病回春』を著しました。
*『万病回春』は和刻の歴史を見ると、江戸時代のごく初期に初めて復刻され、江戸時代を通じて30回近く出版されており、これは中国を凌ぐ回数で、しかもそれは江戸前期の約100年の間に集中しているそうです。
江戸時代中期以降はぱったりと出版されなくなりますが、その影響は今日でも残存しており、中国ではさっぱり使われませんが、日本で常用されている『万病回春』出典の処方は少なくありません。
疎経活血湯、啓脾湯、滋陰降火湯、温清飲、荊防排毒散、清上防風湯、五虎湯、響声破笛丸など、皆『万病回春』に初めて記載される薬方であります。
☆ 1603年 - ジローラモ・ファブリチ (Girolamo Fabrici) が、足の静脈を研究して、心臓への一方向へ流れるようにする静脈弁の存在を発見しました。
☆1628年 - ウイリアム・ハーベーが、心臓を研究してExercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibusを著し、循環器系を解明しました。
☆1701年 - ジャコモ・ビラリニ(Giacomo Pylarini, イタリア)が、初の天然痘予防接種を試みています。
☆1747年 - ジェームズ・リンドが、柑橘類が*壊血病を防止するということを発見しました。
*壊血病の防止により世界中の船乗りの生命がどれ程救われた事でしょう。
☆1763年 - クラウディウス・アイマンド (Claudius Aymand) が、初の虫垂切除に成功しました。
☆1774年(安永3年) 『*解体新書』(かいたいしんしょ)が翻訳されました。
*解体新書は、ドイツ人医師のヨハン・アダム・クルムスの医学書『Anatomische Tabellen』のオランダ語訳です。『Ontleedkundige Tafelen』(「ターヘル・アナトミア」)を江戸時代の日本人が翻訳した書物です。西洋語からの本格的な翻訳書としては日本では初の試みでした。著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)で、安永3年(1774年)に須原屋市兵衛によって刊行されました。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれていました。
☆1776年 - ジョン・ハンター (John Hunter) が、初の人工授精に成功しています。
☆1779年 - ラツァロ・スパランツァーニ がカエル、犬、魚などを用い、卵子と精子の接触による生物の人工授精を行っています。
☆1796年 - *エドワード・ジェンナーが、天然痘予防接種方法(ワクチン)を開発しました。
*ジェンナーの牛痘種痘法開発のエピソードは,戦前修身の国定教科書に取り上げられ,広く知られることとなりました。周囲の反対やあざけりにもめげずに長年努力し,偉業を達成したという内容です。 この話に明治 43 年発行の教科書から「まず自分の子どもに牛痘をうえてみた上」という誤った内容が挿入されたのです。
本当に ジェンナーは 自分の子どもで実験したのでしょうか?
【牛痘種痘法の開発】
今の感覚では,どうして受け入れ られなかったのか不思議に思います。しかし、病気の原因がはっきりしていなかった時代に,また人と獣とは全く違うものだという感覚が常識的であった時代に,牛の病気が人にも移り,それが人の病気を予防するなどという考え方は受け入れがたいものだったようです。実際に「牛痘種痘を施せば牛になる」という内容の批判も寄せられたほどです。結局, ジェンナーは論文を自費出版しました。
免疫の授業をすれば,ジェンナーの名前が必ず登場することでしょう。しかし,「ジェンナーは牛痘 種痘法を開発する際に自分の子どもを実験台にした」と信じている人も多いのではないでしょうか。 全くのウソというわけではありませんが,事実ではありません。
ジェンナーは,バークレーという小さな村の牧師の末子として生まれました。幼くして両親を失いますが,兄姉の庇護のもと外科医としての教育を受けました。その後ロンドンに出て,外科医・博物学者として優れたハンターのもとで学びました。この頃 からすでに牛痘と天然痘の免疫について関心を持っ ており,*ハンターに相談しています。ハンターのア ドバイスは,(当時としては非常に先進的なことに)
*ジョン・ハンターは、イギリスの解剖学者、外科医であり、「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と呼ばれ、近代医学の発展に貢献しています。エドワード・ジェンナーとは師弟関係にありました。
以前からこの話に興味を持っていたジェンナー は,牛痘にかかったことのある人たちに対して天然痘種痘を行い,全員が何の症状をも起こさない(天然痘に免疫ができている)ことを確認しました。うわさが正しいことを確かめたのです。
その後,牛痘種痘の技術的な未熟さから失敗例も出てきて賛否両論が展開されていきました。しかし結果としては認められ,急速に広まっていきました。 そして,天然痘は 1980 年 WHO によって根絶宣言が出され,人の手によって撲滅された最初の病気となったのです。
ジェンナーが、牛痘を人工的に接種する実験を行ったのは、牛痘にかかった女性の手の膿疱から得た液を 8 歳の少年の腕に接種しました(この 少年はジェンナーの息子ではなく,ジェイムズ・フ ィップスという名で,ジェンナー家で働いていた貧しい労働者の子どもでした)少年の腕には膿疱ができ少し発熱しましたが,元気でした。そして2 週間後に,天然痘の免疫ができているかどうかを確 かめるために今度は天然痘を接種しました。ジェンナーの予想通り,少年は天然痘の兆候を示しませんでした。この実験により,危険な天然痘接種の代わりに牛痘接種によって天然痘が予防できることが明らかになったのです。
天然痘は空気感染で移ります。約 12 日間の潜伏期間の後,高熱に続いて,顔や手足を中心とした膿疱が全身にできます。死亡率は 2 ~ 3 割に達し,治癒しても「あばた」が残ります。また,視力を失うこともあります。世界各地で流行し,多くの人の命を奪いました。日本でも「疱瘡(天然痘)すむまで我が子と思うな」とまで言われたそうです。歴史ドラマ でも度々登場します。
「あまり考えることはやめて,とにかく実験してみることだ。辛抱強く,そして正確にね。」というものでした。
そこでアラブ(インドという説あり)では天然痘の水疱からとった物質を腕に作った小さな傷に擦りつけるという方法が行われていました(天然痘接種)。多くの場合,傷口とその周辺だけに膿疱ができ,軽い症状にとどまりました。そして天然痘に対する免疫を獲得できたのです。
ジェンナーは,この成功を確かなものにするためにジェイムズの膿疱からとった材料で,8 人の子ども(ジェンナーの次男ロバートも含まれている)にも 同じ実験を繰り返しました。7 人の子どもで成功し、牛痘種痘の実験以前に軽症型の天然痘(豚痘と呼ばれた)接種を自分の子どもに行ったことも誤解の一因だと思います。また,修身の内容からして「自分の子どもを犠牲にした」という美談がほしかったのかもしれません。いずれにせよ,この修身の教科書の影響で誤解が広まったのだと思います。
この方法はトルコにも伝わりました。トルコのイギリス大使夫人のモンタギュー夫人は、この地で天然痘にかかり,その美貌を失いました。 そこで夫人は自分の子どもに天然痘接種を行い、イギリスに持ち帰りました。モンタギュー 夫人の熱心な活動により,天然痘接種法はイギ リスの医師たちの間で広く行われるようになり ました。ジェンナー自身も子どもの頃に受けて いますし,医師となってからも数多く行いました。
(しかしジェンナーの次男ロバートにだけはうまく付かなかった),そのうちの2人に天然痘種痘を行い,免疫ができていることを確認しました。対照として,牛痘種痘を行っていない子どもにも天然痘種痘を行って,症状が出ることも確かめました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(106)

☆1000年頃 - アンダルシアのアブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー (Abulcasis: Abu al-Qasim) が『解剖の書』(Kitāb al-Taṣrīf: Al-Tasrif) を著し、外科技術や各種治療法、臨床学、自ら設計した医療機器などについて論じました。
☆1010年頃 - イブン・スィーナー(アヴィセンナ:Avicenna)が、『治癒の書』(Kitāb al-Shifā': The Book of Healing) と『医学典範』(Qānūn fi al-Ṭibb: The Canon of Medicine) を著しました。
☆1170年頃 - イブン・ルシュド(アウェロエス:Averroes)が、『医学大全』(Kulliyat, ラテン語名:Colliget)を著しました。
☆1242年 - イブン・アン=ナフィース (Ibn an-Nafis) が、心臓に左右の心室が存在することと、血流の小循環について著述しました。
☆1249年 - ロジャー・ベーコン (Roger Bacon) が遠視を治療するための凸レンズ眼鏡について著述しています。
☆14世紀 - グラナダのイブン・アル=ハティーブが天然痘、コレラ、腺ペストなどの流行病の医療現場での体験から、接触感染による伝染について研究していました。
☆1396年 - 明の劉純が医書*『玉機微義』を著しました。
*『玉機微義』の鍼灸までが徐彦純『医学折衷』の部分であり、残り第八巻 ~三三巻、四四巻~五○巻までを劉純が新たに補訂したものです。
さてここで鍼灸法として特徴的な方法を見てみると、瘡瘍の切開法も鍼法とみなし、心 痛の刺法は胸腹中の虫を狙い刺す方法であり、産に臨んで横生するものに鍼を刺して転じさせる法 があると説き、また刺法においては潟血法が多く見られたとあります。
『玉機微義』の鍼灸を総括すれば、灸法を主体とし、鍼法では出血などを多用し、また外科系疾患に多く適応されました。
☆1403年 - ヴェネツィアが、*黒死病(ペスト)に対して罹患者隔離を実行しました。
*ペストは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行した病気で、人間に先立ってネズミなどの間に流行が見られることが多く、ノミ(特にケオプスネズミノミ(英語版))がそうしたネズミの血を吸い、次いで人が血を吸われた結果、その刺し口から菌が侵入したり、感染者の血痰などに含まれる菌を吸い込んだりすることで感染するのです。人間、齧歯類以外に、猿、兎、猫などにも感染しています。
かつては高い致死性を持っていたことや罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ、恐れられていました。世界史に数次の全地球規模の流行が記録されており、特に14世紀の大流行は、世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させたとも言われています。
☆1451年 - ニコラウス・クザーヌス (Nicholas of Cusa) が、近視を治療するために凹レンズ眼鏡を発明しました。
☆ 15世紀 - イランのマンスール・ブン・ムハンマド・ブン・アル=ファキーフ・イルヤースがペルシア語による人体構造、循環器系(肺循環含む)、神経システムについて図示した『人体の解剖の書』が作成されました。
☆16世紀初頭 - 商人にして医師・錬金術師のパラケルススが、神秘学を退けて、薬として化学物質と鉱物を利用する先鞭をつけました。
☆1515年 - 明の虞天民が『医学正伝』を著しました。
☆1543年 - アンドレアス・ヴェサリウスが、De Fabrica Corporis Humaniを出版し、ギリシア医学の誤りを正して医学に改革をもたらしました。
☆1546年 - ジローラモ・フラカストロ (Girolamo Fracastoro) が、伝染病は受け渡される種子のような何かに起因すると提唱しています。
☆1553年 - ミシェル・セルヴェ (Miguel Serveto) が、肺を経由する血流の小循環について著述しました。
☆1559年 - レアルド・コロンボ (Realdo Colombo) が、血流における肺の小循環についての詳細を記載しました。
☆1578年 - 明の李時珍(り しちん、1518年 - 1593年)が52巻の*『本草綱目』(1590年刊行開始、1596年完結)で1,892種の薬、附方11,916点を編纂しました。
*本草綱目(ほんぞうこうもく)は、中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作です。作者は明朝の李時珍(1518年 - 1593年)で、1578年(万暦6年)に完成、1596年(万暦23年)に南京で上梓されました。日本でも最初の出版の数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼしました。中国では何度も版を重ねましたが、日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版され、それら和刻本は3系統14種類に及びました。
☆1584年(天正12年)、家康が羽柴(豊臣)秀吉と戦った小牧・長久手の戦いの時、背中に癰(よう;細菌感染による腫瘍)ができました。家康自身の膿をしぼりだしたりする処置では悪化するばかりでしたが、家臣がもってきた薬と灸により細菌感染を防止したと云う逸話が残っています。抗生剤の無かった話しです。
☆1607年(慶長12年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上しました。これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となっています。
この「本草綱目」は、2011年にユネスコが主催する世界記録遺産にも登録されております。
次回に続く

診察室からコンニチハ(105)

☆10世紀 - ライイのアブー=バクル・ザカリーヤ・ラーズィー (アル・ラーズィー) が臨床治療に基づいた一連の研究により
*「ガレノス」などの見解を修正して、没後に覚書が『医学集成』として編纂されています。
*ガレノスは、ヒポクラテスの医学をはるばるルネサンスにまで伝えました。彼の On the Elements According to Hippocrates は、ヒポクラテスの四体液説を叙述しています。四体液説は人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁から成るとする説で、それらは古代の四大元素によって定義付けられ、かつ四季とも対応関係を持つとされています。彼はこの原理を基にして理論を創出しました。しかし、それらは純粋に独創的なものというよりも、ヒポクラテスの人体理論の上に構築されたものと見なしうるものでした。
ガレノスの主な著作のひとつとして、17巻からなる「人体の諸部分の有用性」がありますが、ガレノスはまた、哲学や文献学についても執筆し、同じく解剖学についても広く執筆していました。彼の全集は22巻にも及び、彼はその生涯のほとんどを通じて、執筆を行っていました。
プラトンにも一致するガレノスの理論は、単一の造物主による目的を持った自然(ギリシャ語physisピュシス、英"Nature" )の創造を強調していました。後のキリスト教徒やムスリムの学者たちが彼の見解を受け入れえた理由がここにあります。彼の生命に関する根源的原理は「生気」(プネウマ)であり、後の書き手たちはこれを魂と結びつけました。哲学に関するこれらの作品は、ガレノスの十分に円熟した教養の産物であり、彼は生涯を通じて医学への哲学的要素を強調することを頻りに行っていました。彼によれば、「脳の中の動物精気 (Pneuma physicon) が運動、知覚、感覚を司り、心臓の生命精気 (Pneuma zoticon) が血液と体温を統御し、肝臓にある自然精気が栄養の摂取と代謝を司る」と考えていました。しかし、彼は血よりもむしろ生気が静脈を流れるという生気主義的理論 (Pneumatist theory) には同意していませんでした。
ガレノスの知識は、生きた動物を使った臨床実験によって広がりを見せています。その一環として、一度に神経の束を切断するために生きた豚を解剖することを行っています。その際に、豚に悲鳴を上げさせないために喉頭の神経を切断しましたが、この神経は現在、少なくとも英語では「ガレノスの神経 (Galen's nerve) 」とも呼ばれています。彼はまた、腎臓から尿が送られることを見るために生きた動物の尿管を結び、また麻痺を示すために脊髄の神経を切断しました。ガレノスは、豚はいくつかの観点から解剖学的に人体とよく似ているということを理由に豚を使う旨を強調していたものの、バーバリーマカク猿や山羊も解剖に使っていました。しかし、ガレノスは、自身を医学のより職人的な要素とは常に峻別していました。公開解剖は、他の論者たちの理論に対する論駁のためには高い価値のあることでもあったし、古代ローマで学ばれていた医学の主要な手法の一つであったのです。それに出席し、しばしば議論に突入する多くの医学生たちにとって、全くの開かれた窓でありました。
現代から見れば、ガレノスの理論は部分的には正しく、部分的には誤りでした。正しいことを示したこととしては、彼は、動脈が運ぶものは生気ではなく血液だということを示しましたし、神経機能、頭脳、心臓に関する最初の研究も行っています。彼はまた、アリストテレスが心は心臓にあるとしたことに対し、心は脳に宿ることも示しました。
しかし、現代の視点に照らしたときに、誤りがあることとしては、彼は循環系を認識していなかったし、動脈と静脈がそれぞれ切り離されたシステムであると考えていました。この考えの変更には、17世紀のウィリアム・ハーヴェイを俟たねばならなかったのです。彼の解剖学的知識の大半は、犬、豚、猿などの解剖に基づいていたために、彼は奇網(Rete mirabile:ラテン語で「驚異の網」の意、有蹄動物がもつ血管の網で一種の熱交換器官)が人体にも具わっていると推測していました。彼はまた、流血の手当てに止血帯を用いることに抵抗し、治療法の一つとして瀉血を盛んに宣伝していました。
*ラーズィーは、ガレノスの四体液説を否定しました。また彼は『天然痘と麻疹の書』(Kitab fi al-jadari wa-al-hasbah)では麻疹と天然痘について記述し、ヨーロッパに大きな影響を与えました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(104)

☆2世紀前半 - 後漢の華佗が、麻沸散を用いた全身麻酔で開腹術を行ないました。
☆3世紀前半 - 後漢の張仲景が『傷寒雑病論』(後の『傷寒論』と『金匱要略』)で急性の熱病の治療法を著しました。
*『傷寒論』(しょうかんろん 繁体字: 傷寒論; 簡体字: 伤寒论; ピン音: Shānghán lùn)は、後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した伝統中国医学の古典で、内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっています。
*『金匱要略』(きんきようりゃく)は、中国の古典医学書で『傷寒論』とともに東洋医学の薬物療法の古典として最も重要視されています。『傷寒論』は傷寒という急性熱性病の病状の変化とこれに対応する治療の法則を述べたのに対し、『金匱要略』は病類別に種々の病を取り上げ、その病理と治療方法とを述べました。
☆3世紀後半
西晋の皇甫謐(こう ほひつ、215年 - 282年)が、『黄帝三部鍼灸甲乙経』 を著しました。
*『黄帝三部鍼灸甲乙経』
「黄帝内経素問」、「霊枢」に「明堂」を加えて、西晋の皇甫謐により再編集された針灸医学書。古代の鍼灸書として現代に残る最も重要な文献の一つとされています。
701年大宝律令の医制により日本の典薬寮における医学の教科書の一つに指定されました。
☆4世紀 - 東晋の葛洪が医書『肘後備急方』を著しています。
*『肘後備急方』は原名を『肘後卒救方』と呼び、唐宋以降の『備急千金要方』『外台秘要』等の方書を引用しています。急性伝染病、各臓器の疾病、外科、婦科、児科、口腔、眼科等の病症に対する実用的な方書です。一方の葛洪は東晋の医学家、煉炭家、道教理論家で本書は明・万暦劉自化刊本を底本とし、明・正統道蔵本(涵芬楼影印)、清・乾隆『四庫全書』写本を校本として校勘を施しています。
☆6世紀前半 - 梁の陶弘景が『神農本草経集注』を編纂しました。
*『神農本草経』は神農氏の後人の作とされていますが、実際の撰者は不詳です。365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述しています。上品は無毒で長期服用が可能な養命薬、中品は毒にもなり得る養性薬、下品は毒が強く長期服用が不可能な治病薬としています。
☆7世紀 - 隋で医書『千金要方』が編纂されました。
*『千金要方』30巻は、医学道徳の規範、臨床知識、婦人・小児・内・外科それぞれの病証と解毒・救急・食治・養生・平脈・針灸・孔穴主治・導引などを述べています。232門に別れ、五千三百の方を収めました。唐代以前の医薬学の集大成というべきで、前に紹介した巣元方の「諸病源候論」につぐ総合医学百科全書であります。ユニークなことに、一般内科よりも先に婦人科・小児科があり、彼が婦人や子供の保健衛生を特に重視したことを示しています。
☆610年 - 隋の巣元方(そう げんぽう)が『*諸病源候論』を著しました。
* 『諸病源候論』【しょびょうげんこうろん】
病源候論とも。中国の隋の医家,巣元方らが610年ごろ煬帝(ようだい)の勅を奉じて編纂(へんさん)。50巻。広く病名をあげ,症候を記述し,病源を論じたもので,現存テキストは原本とかなり異なった編成となっていますが,後代に大きな影響を与えた医書です。
☆8世紀 - 唐の官吏・王濤が漢方処方を『外台秘要』として編纂しました。
*げだいひよう【外台秘要 Wài tái mì(bì) yào】
752年(天宝11)に王燾(おうとう)が編纂した中国臨床医学書。40巻。内科疾患が主な対象でありましたが,その他の疾患も含んでいます。当時存在していた医書からの引用文のみで構成され,病因とか病状についての短い記述も含みますが,大部分は薬物処方です。唐時代の治療法がわかるだけでなく,他の書と違って引用文の出典を明記しているため,現在残っていない医書の内容を知り得る貴重な書です。
☆9世紀 - アル=ルハーウィーが『医師の倫理規約』を著しました。
次回に続く

青田さんへの回答「クエチアピンについて」

青田さんへの回答「クエチアピンについて」
レンドルミンはともかくクエチアピンの服用は明らかに認知機能に悪い影響を与える危険性が強いでしょう。かかりつけ医が直ぐにクエチアピンを中止して頂いたのは幸いでした。体重増加と糖尿病の誘発(あるいは悪化)が一番気になる副作用です。さらに催眠効果が強いので認知症を誘発しやすいのです。
2019.04.29.  【ご質問】
成川先生、お世話になっております。
経過報告(退院報告)になりますが
8カ月ぶりに父親が退院しました。
その後、スグに指示されたかかりつけ医に行きましたが、
そのかかりつけ医が、
入院中の病院で、処方されていた薬に疑問を感じていました。
レンドルミン(睡眠導入剤)、クエチアピン錠です。
転院前の病院で、せん妄があったので、クエチアピン錠を処方されていたのですが、その後、
せん妄が治った後も、引き続き3か月間クエチアピン錠を処方されていたようです。
退院後、かかりつけ医の判断で、クエチアピン錠を服用中止しましたが、
レンドルミン(睡眠導入剤)、クエチアピン錠を高齢者が長期間服用した場合、認知機能の低下のような症状は、起きるのでしょうか?
かなり、専門的な内容なので、成川先生のご意見をお聞かせ頂きたければ、幸いです。