潮騒は聞こえず(10)

寝たり起きたりの紀子の父の療養生活は3年しか続かなかった。冬の訪れを少し感じ始めた昭和21年11月末の小雨の降る日に、彼女の父親はわずか27年と言う短すぎる人生の幕を静かに下ろしてしまった。形ばかりの葬儀が終了した数日後に紀子の母、道子はそのまま寝込んでしまった。全身の力が抜けて行く様だった。これまで働きに働いて病身の夫と幼子の一人娘の生活を支えて来たのである。病身の夫とは言え、それはそれで一つの心の支えにもなっていた。わずか5年間の夫婦生活でしかなかったが親の反対を押し切って、駆け落ち同然で一緒になった二人であった。そんな夫を亡くしてからは食事もほとんど喉を通らず寝床から身体を上げる事はとても出来なかった。幸い長屋の隣近所の気の良いおかみさん連中が3才の紀子の世話を何くれとなくしてくれたので、申し訳ないと思いつつもその好意に甘え切ってしまった。もう誰もすがる相手はいないのだ。紀子だけではなく自分にまで食事の差し入れがなされた時は、有り難さで一人煎餅布団の中で涙を流した。終戦直後のまだ物のない時代であったが、それでも人情味あふれた下町風情は十分に息づいていた。
明日に続く
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