診察室からコンニチハ(79)

医療の本質はボランティアであると考えて、私は医師の道を選びました。京都に日本で一人だけ医師にもかかわらず、生活保護者でいる人がいると聞かされ私は憧れました。その医師は社会生活からはみ出た貧困者の医療に従事していたとの事でした。生活保護者だけを診ても、それなりの報酬は受けられるはずですが、その医師は難民対策にも関わっていた様です。
また大学時代には哲学科の教授から、
「医師の本道は托鉢医にある。看家の病人を診させて頂き、一杯の茶碗に粥などの施しを受ける。これが医療の理想である」
との講義も受け、若き日の私は感動しました。また産婦人科の教授は、
「先生とは呼ばれず、○○さんと呼ばれる医師になりなさい。若い時代から先生などと呼ばれていたら傲慢で、無教養な人間が出来上がってしまう」
と、仰られたのです。正に我が意を得た薫陶(くんとう)でした。そして患者さん方は皆んな、我が師であると自分でも考える様に努めました。
「頭が痛い」、「めまいがする」
など多くの訴えが出され、そこに正しい解答が得られれば、患者さん方の訴えは改善すると考えていたのです。
そして何とか医師の資格を得て、大学病院で研修する事となりました。最初の数年間は無我夢中で勉学したと思います。医師国家試験前よりは圧倒的に勉強していたと考えています。学生時代の紙の上の試験ではなく、そこには生きた人間の生命があったのです。大学病院の初めの6年間は無給時代で、生活は厳しく日祭日のバイトで何とか生活を凌いでいました。月に1~2日ぐらいの休暇には眠る事だけが唯一の楽しみでした。学生結婚でしたが、医師になっても家族を支える生活費はなく、大学卒業後しばらくは親の脛をかじっていました。医師になって数年後からは、民間病院のバイトが回って来る様になり、月に10日近く夜勤のバイトをする事で生活費は自分の力で何とか捻出できる様になりました。如何にボランティアを目指して医師を志したと言っても、現実には妻や子供を養うお金は必要でした。
それでも勤務する大学病院で室料差額を払えない重症患者さんの為に、幾人かの若い医師たちが自分たちの貧しい財布から拠出金を出し合って、室料差額を補充したりはしていました。
「類は友を呼ぶの譬え」
にあるごとく、私の拠出金の提案に10人近い仲間が賛同してくれた時の喜びは格別でした。医師の若い時代は貧しかったのですが、夢は今よりずっと大きかった感じがしています。そんな私が、なぜ現在は日々病院経営の勉強に一喜一憂しているのでしょうか?名も無き寒村で、
「托鉢医としての本道を歩まなかったのでしょうか?」
私の若き日の志は、どの様に綻(ほころ)んで行ったのでしょうか、そんな懺悔とも言えぬ述懐を次回からは少し書いて行きたいと思います。
次回に続く
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