診察室からコンニチハ(82)

元講師であった山村先生との出会いから私は病院経営を意識し始めていたのですが、どの様な規模でその目標とするかは未だ方向が見えずに模索していました。ですから、それ以後のバイト選びはただ臨床経験を多く積む為だけでもなく、バイト代の高さを望んでいただけでもなく、自らが目指す病院作りはどうあるべきかを目指すバイト先を意識的に選んでいました。
それより数年以上前に、先輩医師から頼まれ経営危機に瀕していた老人病院のバイトに関わっていた事がありました。未だ30才前の私でしたが、1年近く日当直で実に良い経験をさせて頂きました。ベッド数は100床前後で廃屋を病院にした様な建物で、廊下を歩いていても、ギシギシ音が出るような感じで夜中の当直帯には幽霊が出てもおかしくない雰囲気でした。
昭和40年代ぐらいまでは、今と違って病院の建物はずっと貧弱でした。産院なんかでも、こんな所で子供を産むのかと考えてしまうほど老朽化した建物はかなり多かったので、そんなバイト先の老人病院でも特に私は違和感を持っていませんでした。それよりは常勤医が一人もいなくて、大学からのバイト医だけで繋いでいる現実の方が奇異な印象でした。
元病院長は病院経営に失敗して、その経営権は組織暴力団の手に渡っていました。そんな前後の事情は何も知らされず、先輩医師から…
「何とかひと肌脱いでくれ」
と、頼まれて始めたバイトでした。
勤め出して数ヶ月間で、暴力団が経営している病院だと気付いたのですが、その時は全く足の抜けない状況におかれていました。生来がお調子者の私は、その時までに大学病院の仲間を7人以上もその病院に紹介して皆んなで繋ぎながら病院運営を切り回していたのです。50才前後の事務長は少し目の鋭い強面の人でしたが、私たちには常にニコニコと愛想良く振舞ってくれました。バイト代も相場より2割ぐらいは高かったと記憶しています。そんな事より私が一番興味を持ったのは、元の病院長が何故病院経営に失敗してしまったかと云う事です。その病院長は軍医上りで、現代医療の知識はほとんど無く、老人病院だったら医学知識などあまり必要ないだろうと考え安易に組織暴力団の口車に乗せられ、その病院経営に手を出したらしいのです。
昭和40年代は戦後20数年ですから、その様な軍医上りの医師はかなり多かったようです。彼等の一部は大学病院に戻って再度勉強しなおした人たちと、医学的知識が乏しくても務まる船医なった人とか、精神病院で医師の肩書きだけで何とか露命を繋いだ人とか色々といた様です。
しかし、如何に老人病院といえども医学的知識が乏しくて務まる訳はないのです。それ以前に、その暴力団がどの様な事情でその病院の経営権を手にしたかは不明でしたが、彼等にしてもそんな医師で病院長が務まると考えたのは実に安易な発想でした。そんな訳で元病院長は3年足らずで行方をくらましてしまった様です。そんな後に世間知らずの私たちが乗り込んだのです。
次回に続く
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