診察室からコンニチハ(83)

その暴力団が経営する病院で、私たちは努力限りの医療活動をしていました。よくこんな病院に入院する人がいるなと思うくらいベッドは常に満床でした。それは病院数が今よりずっと少なかった事と、老人ホームなどの福祉施設が皆無に近い時代でしたので、病院は寝たきり老人の施設的な役割を果たしていたのでしょう。ですから昭和50年代までは、一般的な医療知識を持っていた医師が経営する医療機関で経営的な危機に瀕するなどは考えられなかったのです。日本全体が好景気に沸いていたのと同様に病院経営も絶好調だったのです。それが平成バブル崩壊後、病院倒産も著明になって行くのですが、その話は後にしましょう。
病院長がいない病院、バイトだけで繋いでいる病院、そんな病院がどうやったって継続して行ける訳はないのです。そんな中で事務長は必死だったと思います。私たちの数人を一流の料亭に招いたり、破格のボーナスを出したりして何とか私たちの一人が病院長になってくれないかと幾度ともなく拝む様に説得されました。提示される年収も破格でした。
私たち同僚の多くは、それなりに悩んでいた様です。このまま大学病院でコツコツと働くのが懸命なのか、こんな病院でも「長」と言われる人になって経済的に恵まれた生活をするのが良いのかと…
しかし、私自身は未だ自分の医師としての未熟さを自覚していましたので最初からそんな話には耳を貸しませんでした。それでも、これほど多くの認知症患者さんを多数診させて頂いたのは大きな経験でした。病室に立ちこもる便臭、褥瘡の多さ、ゴールのない入院生活など、大学病院では考えられない状況でした。そこは病院というよりは老人施設そのものでした。建物の老朽化と考え合わせると、正に「姥捨山」と言っても過言ではなかったと思います。結局、その病院は保健所の医療監視のもとで廃院に追い込まれ、私たち同僚もバイトを辞めざるを得なかったのですが、この一件は私に強い印象を残しました。
自己資本などなくても、廃院しかかった病院を自分の力で立て直して行けば良いのだと云う一筋の道が脳裏にかすめたのでした。
その後も私のバイト生活は続いていました。一時は「人工透析」専門の病院でバイトをした事もありましたし、川崎のドヤ街に近い病院でアル中患者相手の「肝臓外来」も数年近くはやっていました。
そのうちに、ある友人から新しく出来た老人病院のバイトを頼まれました。
彼自身は精神科医だったので、内科の事はよく分からないから色々とアドバイスをして欲しいと懇願されたのです。
次回に続く
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