診察室からコンニチハ(85)

病院開設に最も苦労したのは土地探しでした。母校の大学病院を中心に半径50km以内を条件に、千葉の流山、神奈川の海老名、厚木と探している間に1年と云う月日が直ぐに流れて行きました。
1000坪以上で、近くに住宅地が密集する農地(市街化調整区域の農地は一般住宅地の1/3ぐらいの価格が普通でしたので)を探し出すと云うのは、予想以上に困難でした。自分の脚で一軒一軒の不動産屋を回っても土地など見つかる訳もなく、結局は建築業者の斡旋に頼むしかなかった訳です。何人もの地主の方と話し合い交渉の結果、やっと横浜市青葉区に1400坪の敷地確保の話しがまとまりました。土地探しを始めて2年が経っていました。それから設計に1年、建築に1年余りをかけて何とか念願の病院が開院の運びとなりました。
未だ外壁工事も終わらないコンクリートが丸出しの病院の屋上から、田園風景が広がる外界を目にした時の感動を忘れる事はないでしょう。昭和58年の師走も終わりに近づいた寒い日でしが、心の中では明日の闘志を燃やしていました。スタッフ募集は11月末からスタートしました。ヘルパー、給食、事務、検査技師などは比較的に応募して来ましたが、レントゲン技師、リハビリのスタッフなどの人集めには苦戦していました。しかし、最大の難関は看護婦を集める事でした。看護婦は大学病院とバイト先の病院から10名近くは何とか確保出来ました。それ以外には事務職員に、東北や九州の看護学校や高校に幾度か出張させ看護婦集めに奔走させました。もちろん毎週のように新聞募集もしていました。それやこれやで看護婦も20名ぐらいは集める事が出来ました。
昭和59年2月1日より患者さんの入院受け入れが開始されました。この時点で入院予約は200名を超えていました。入院ベッド数125床(当時)を満床とするには1年近くかかるだろうと考えていたのですが、入院予約が200名と云うのは嬉しい誤算でした。しかし、この予約患者さんをスムーズに受け入れる内部の体制作りが余りに遅れていました。とりあえず1日に5名づつ入院させて行きましたが、わずか7日目で受け入れ体制はパンク寸前に追い込まれました。薬剤を中心とした備品の整理には十分に神経を使ったのですが、それでも緊急時に必要な薬剤が無かったり、包帯、脱脂綿などの置き場所が分からなかったりと、多くの混乱が待ち受けていました。
入院患者さんの受け入れは35名でストップして、再度内部の体制作りをチェックすべき状況に追い込まれてしまいました。
次回に続く
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