診察室からコンニチハ(87)

1年後輩の里中(仮称)医師が週に1日だけバイトに来る様になって3ヶ月目に、彼の方から突然…
「2年間だけなら常勤医になっても良いですよ」
と、言い出して来たのです。大学病院での医局生活が嫌になったと漏らしていました。自分の書いた医学論文を先輩医師に横取りされ憤慨していたのです。だから2年間の準備期間を置いて、田舎に帰って開業する意志を固めたと言うのです。その間の2年間だけなら常勤医になっても良いと言ってくれたのでした。彼の個人的な事情はともかく、私は狂喜して泣き崩れてしまいそうでした。これで何とか自分の病院が生き残れると、心の底から安堵したのです。常勤医がそれまでの60才代の女医さん一人では、どうにもならなかったのです。
昭和40~50年代にかけて医学の進歩は急激でした。私より10年以上年配で開業した医師の多くは、その急激な医学の進歩に悪戦苦闘していました。エコー、CTなどの普及は昭和50年代から始まったもので、それ以前の医学教育では未知の医療機器だったのです。生化学的な検査も日々新しい知見が加わっていました。さらに新薬も次から次へと開発され、感染症のみならず、統合失調症(精神分裂病)まで完治する報告が相続いていました。正に私は「段階の世代」そのもので、この世代の前後で医学は大きな変貌を遂げていたのです。総合病院などで最新の医学情報に接しながら医療に従事していた医師はともかく、それ以外の医師では時代の流れから取り残され、医師免許の名義貸しに準じる仕事や、船医もしくは無医村などで医療活動を余儀なくされる人も多かったです。
そんな事情で、常勤医が60才代の女医さんと二人では出来る限り自分でやるしかなかったのです。通常の肺炎程度の入院は彼女に任せるにしても、それ以外の難しいケースは私が診る事になりました。その結果、里中医師が常勤医になるまでは月曜から土曜までの午前の外来診療は全て自分でこなし、入院患者も80人以上を一人で診ていたのです。それは肉体上の疲労と云うよりは生理的な限界に達していたのです。それが里中医師の登場で私の仕事は半減したのです。正に地獄に仏を見るような思いでした。
次回に続く
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