診察室からコンニチハ(88)

病院開院1年を経て、里中医師を常勤に迎えてから全ては順調に動き出しました。ベッドも125床の満床になり、外来患者も少しずつ増え出しました。看護婦その他の職員もほぼ充足し、経常利益も2年目からは黒字化となりました。この頃から私は大学病院に戻りたいなどと云う思いを抱かなくなっていました。里中医師とは部活の長い付き合いもあったので、始めから無二の親友の様に接していました。彼は公私にわたる私の如何なる相談にも応じてくれましたので、年齢こそ私の方が上でしたが実質は兄の様な存在でした。
さらに彼が常勤になった事で、大学の同僚の態度に変化が生じて来ました。
大学病院ではホープ的存在であった彼が私の病院に入職した事で、
「そうか、里中が勤める病院なのか?」
と云う印象が大学の研究室仲間にも強くなり出し、パートで外来や当直に応じる医師が少しずつ増え出し、病院の内部体制はより充実して来ました。
しかし里中医師の在職期間は2年間の約束なので、さらなる常勤医師の確保に手を抜く事は出来ませんでした。最初に手がけたのは、パートで来ている医師が常勤医になる様に心を砕く事でした。開設3年目からは、私の自由時間も増えて来ましたので、殆ど忘れかけていたゴルフにも時間を割ける様になりましたので、目を付けていたパート医を盛んにゴルフへと誘い込みました。もちろん飲みに行ったりもしました。里中医師もゴルフが好きだったので、いつも一緒でした。そんな努力も実って、彼と約束した2年間が過ぎる頃には常勤医が2名増え、外来診療時間も午前診だけではなく、午後診も開き入院べッド数も125床から145床に増床しました。さらに神経内科や循環器の特診も新たに設け、内科に関しては市中病院に負けない体制が強化されました。病院運営が順調に進んで来た所で、私は病院拡張を望み隣接地の買収に乗り出しました。そんな買収交渉の矢先に、突然横浜市は新たな病床数の増加に歯止めをかけて来ました。
厚労省の医療費抑制政策を受け、横浜市が全国で最初に病床数の増加を禁止して来たのです。病院の許認可権は都道府県知事(横浜市は特別行政区)にありますので、如何に厚労省が全国的に病床数規制の網をかけても各都道府県の考え方により規制実施は何年も違っていたのです。それがよりによって横浜市が全国で最初に病床数の規制に乗り出して来たのですから、当時の私にすればショック以外の何ものでもありませんでした。
次回に続く
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