診察室からコンニチハ(105)

☆10世紀 - ライイのアブー=バクル・ザカリーヤ・ラーズィー (アル・ラーズィー) が臨床治療に基づいた一連の研究により
*「ガレノス」などの見解を修正して、没後に覚書が『医学集成』として編纂されています。
*ガレノスは、ヒポクラテスの医学をはるばるルネサンスにまで伝えました。彼の On the Elements According to Hippocrates は、ヒポクラテスの四体液説を叙述しています。四体液説は人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁から成るとする説で、それらは古代の四大元素によって定義付けられ、かつ四季とも対応関係を持つとされています。彼はこの原理を基にして理論を創出しました。しかし、それらは純粋に独創的なものというよりも、ヒポクラテスの人体理論の上に構築されたものと見なしうるものでした。
ガレノスの主な著作のひとつとして、17巻からなる「人体の諸部分の有用性」がありますが、ガレノスはまた、哲学や文献学についても執筆し、同じく解剖学についても広く執筆していました。彼の全集は22巻にも及び、彼はその生涯のほとんどを通じて、執筆を行っていました。
プラトンにも一致するガレノスの理論は、単一の造物主による目的を持った自然(ギリシャ語physisピュシス、英"Nature" )の創造を強調していました。後のキリスト教徒やムスリムの学者たちが彼の見解を受け入れえた理由がここにあります。彼の生命に関する根源的原理は「生気」(プネウマ)であり、後の書き手たちはこれを魂と結びつけました。哲学に関するこれらの作品は、ガレノスの十分に円熟した教養の産物であり、彼は生涯を通じて医学への哲学的要素を強調することを頻りに行っていました。彼によれば、「脳の中の動物精気 (Pneuma physicon) が運動、知覚、感覚を司り、心臓の生命精気 (Pneuma zoticon) が血液と体温を統御し、肝臓にある自然精気が栄養の摂取と代謝を司る」と考えていました。しかし、彼は血よりもむしろ生気が静脈を流れるという生気主義的理論 (Pneumatist theory) には同意していませんでした。
ガレノスの知識は、生きた動物を使った臨床実験によって広がりを見せています。その一環として、一度に神経の束を切断するために生きた豚を解剖することを行っています。その際に、豚に悲鳴を上げさせないために喉頭の神経を切断しましたが、この神経は現在、少なくとも英語では「ガレノスの神経 (Galen's nerve) 」とも呼ばれています。彼はまた、腎臓から尿が送られることを見るために生きた動物の尿管を結び、また麻痺を示すために脊髄の神経を切断しました。ガレノスは、豚はいくつかの観点から解剖学的に人体とよく似ているということを理由に豚を使う旨を強調していたものの、バーバリーマカク猿や山羊も解剖に使っていました。しかし、ガレノスは、自身を医学のより職人的な要素とは常に峻別していました。公開解剖は、他の論者たちの理論に対する論駁のためには高い価値のあることでもあったし、古代ローマで学ばれていた医学の主要な手法の一つであったのです。それに出席し、しばしば議論に突入する多くの医学生たちにとって、全くの開かれた窓でありました。
現代から見れば、ガレノスの理論は部分的には正しく、部分的には誤りでした。正しいことを示したこととしては、彼は、動脈が運ぶものは生気ではなく血液だということを示しましたし、神経機能、頭脳、心臓に関する最初の研究も行っています。彼はまた、アリストテレスが心は心臓にあるとしたことに対し、心は脳に宿ることも示しました。
しかし、現代の視点に照らしたときに、誤りがあることとしては、彼は循環系を認識していなかったし、動脈と静脈がそれぞれ切り離されたシステムであると考えていました。この考えの変更には、17世紀のウィリアム・ハーヴェイを俟たねばならなかったのです。彼の解剖学的知識の大半は、犬、豚、猿などの解剖に基づいていたために、彼は奇網(Rete mirabile:ラテン語で「驚異の網」の意、有蹄動物がもつ血管の網で一種の熱交換器官)が人体にも具わっていると推測していました。彼はまた、流血の手当てに止血帯を用いることに抵抗し、治療法の一つとして瀉血を盛んに宣伝していました。
*ラーズィーは、ガレノスの四体液説を否定しました。また彼は『天然痘と麻疹の書』(Kitab fi al-jadari wa-al-hasbah)では麻疹と天然痘について記述し、ヨーロッパに大きな影響を与えました。
次回に続く
関連記事

コメント