潮騒は聞こえず(23)

1942(昭和17年)6月5日から6月7日までのミッドウェー海戦は日本海軍の大敗であった。日本側の損害は航空母艦4(米国は1)、航空機289機(米国は150機)、戦死者3057名(米国362名)の壊滅的状況であった。1941年12月8日の真珠湾奇襲の成功が日本海軍の慢心と情報戦の甘さを誘発し、負けるべくして負けた結果であると言えなくもない。そして太平洋の制海権は、徐々に失われ海運業を営む熊沢の会社経営へも少しづつ暗い陰を落とし始めていた。満州、シンガポール、マカオ、台湾等への生活用品、軍需物資の輸送などを大掛かりに手がけていた熊沢商会の商船がアメリカの潜水艦に次から次へと魚雷攻撃を受け始めたのである。1937(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件、同8月13日の第二次上海事変あたりから熊沢商会の営業利益は、うなぎ昇りとなり満州に幾つもの支店を出し業績は拡大する一方だった。それがミッドウェー海戦後1943(昭和18年)2月頃から雲行きが一気に怪しくなって来た。嘘八百の大本営発表とは裏腹に日本側の敗北は日々明確となっていった。陸軍大出の佐官級の将校が未だ30代から40代ぐらいで血気にはやり己のプライドだけで、この国を滅亡の底に追いつめようとしていた。本土上陸による決戦。一億総玉砕に成ろうとも我が神州は守り抜く、などと言う発想は常識的に考えれば狂人の発言としか考え様がない。それが東京帝大と競いあった陸軍大出のエリート集団のかなりの思考回路だった。その溯上は何処から生まれたのか。それは明治政権樹立時に遡る。政権樹立時は薩長土肥の集合政権だった。その中で西郷隆盛を中心とする薩摩藩が西南の役で後退、肥後藩も西南の役に多くが組み込まれ影を薄くして行く。土佐の坂本龍馬は明治政権樹立前に暗殺され、板垣退助は征韓論で西郷と共に下野、自由民権運動に走る。薩摩藩のもう一人の巨頭、大久保利通は唯一薩摩藩の中では西南の役には反対だったが、西南の役の翌年(明治11)の5月14日、東京紀尾井坂で暗殺されてしまう。こうして明治政権の立役者は次から次へと消え去り長州藩単独政権と成って行った。その思考過程を辿れば長州閥の毛利家何代もの怨念を感じずにはいられないが、ここでは多くを語るまい。
明日に続く
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