潮騒は聞こえず(28)

小雪が少しづつ本降りになり出して来た。ともかくタクシーを拾わなければと吉次は、5、6分ほど新橋通りで目を皿の様にタクシーを探した。タクシーはなかなか掴まらず吉次はイラ立って来た。黒人少尉が怒り出さないかとそればかりが気になっていた。丁度その時に吉次の目の前でタクシーが停まった。GHQの白人とパンパンらしき女が降りて来た。「I’m sorry、I’m sorry.」を連発して吉次は何とか黒人少尉をタクシーの中に誘い入れた。「向島にやってくれ」「向島のどちらで」「川沿いの辰屋だ」「へい、分かりました」と、ドライバーは車を走らせた。辰屋は戦前までは芸妓と旦那達の、ちょっとした待合だった。それが戦後はGHQ相手の仕事が多くなっていた。20代から30代前半くらいの女を5、6人置いて着物と言うよりは浴衣に近い物を身に付けさせ、芸者ガールとの触れ込みで客を取らせていた。吉次も何度か辰屋に客を引き入れ、その度に店から決まった金を受け取っていた。タクシーから降り、吉次は辰屋のゲストルームに黒人少尉を導き入れた。吉次の仕事はここまでである。しかし今日の吉次はちょっと違っていた。別れ際に自分の電話番号のメモ書きを黒人少尉にそっと手渡し、小声で「ここの女が気に入らなければ今度はもっと良い女を探すから」と囁いた。黒人少尉はウィンクで答えた。辰屋のゲストルームは16畳ほどの洋間で、先ず客はリクエストした飲み物を受け取る。ビールだったり、ウィスキーだったり、カクテルだったりと夫々である。アルコールで少し気分の良くなったあたりで、ゲイシャ気取りの女たちが15分間隔ぐらいでゲストルームに入って来て男の体にしなだれ掛かる様にして酌をする。そうやって何人かの女が入れ替わりやって来る。気に入った女がいれば、その名を聞く。そこでビジネスが成立だ。客と女は別の部屋に行って朝まで過す。
明日に続く
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