潮騒は聞こえず(29)

そんな頃だった吉次が偶然にも浅草雷門付近で鈴枝と再開したのは。「鈴枝姐さん、何時まで立ち話もないだろうから、もし良ければちょっと先に美味しいお汁粉屋があるんだが、お時間はどうですかい」と、今少し話をしたがっている素振りを見せた。鈴枝にしても急ぐ用事がある訳でもなし、甘い物でも食べて昔話を少しぐらいはしても良い気持ちになっていた。文字通り「汁粉屋」と書いてある店に鈴枝は吉次と一緒に入って行った。店の中に座り熱い茶をすすりながら「旦那さんに亡くなられ姐さんも大変ですね。生活の活計(たつき)はどうなさっていらっしゃるんです」「そうなのよ、しばらくは旦那の残してくれた物で何とか遣り繰りはしているんだけど、そう何時までも長続きする訳もないし。ほとほと悩んでいる所なんだよ。今更花柳界に戻る気にもならないし吉さん、何か良い話はないかね」「まだ姐さんの若さと、その器量だ。姐さんさえその気になれば言い寄る旦那衆は掃いて捨てる程いるんじゃないんですかい」「吉さん、そんな上手は通じないよ。私の事を幾つだと思っているんだい。数えで26だよ。もう旬の時は過ぎているよ。それにね確かに前の旦那には良くしてもらったが、でも私は年寄りの子守りは嫌だよ。今どき若くて金のある奴なんていやしないじゃないか」「姐さん、そんなにポンポン言ったんじゃ、話の持って行き所がないじゃないか。じゃぁいっそ軍人じゃどうです」「軍人てGHQの兵隊の事かい。そりゃ確かに若いだろうが金は持っていないだろうよ」「兵隊だったらそうかもしれないが将校ともなりや話は別だ」「そんなもんかね」と、鈴枝は満更でも無い顔をしていた。吉次は吉次で別の事を考えていた。例の黒人少尉から本物のゲイシャガールはいないのかと、何度も電話が入っていたのだ。向島の辰屋にも何回かは行ってみたらしいのだが、何の芸も品もない枕芸者以下の女たちでは飽きが来たのだろう。「で、どうなんだい姐さん、GHQの将校さんなら」「でも直ぐに帰ってしまうだろう、国にさ。何時まで日本にいるって保証もないだろうに」と、鈴枝は自分の中の不安をそのまま口にした。「姐さん、そりゃ考え過ぎだよ。GHQの兵隊が2、3年で引き上げて行くとも思えないし、それに何か大きな裁判が東京で開かれるって話ですよ」「何だい大きな裁判って」「何でも東條英機とか板垣征四郎とか言った偉い軍人さん達が裁判にかけられるって話ですよ。かなり大層な裁判になるって専らの噂だ。そんな裁判にでもなりゃ何年かかるか見当もつかないじゃないですか。つまりGHQは単純に日本から引き上げたりしないって事ですよ。それにね、GHQの将校と良い仲になれば結婚てえ話だってあり得るじゃないですか」「結婚ね、そんなに話が上手く行くかね」「姐さん程の器量良しなら、あり得ない話じゃ無いと思うんですがね」「全く、吉さんは前からそんなに口が上手だったかね。その気にさせられそうだよ。もう私は昔の様な小娘じゃないから、そんな簡単には乗せられないよ。でも今日は楽しかったよ。じゃあ又ご縁があったらね」と、帰りかかろうとする鈴枝に吉次は「いや今日はお時間を取っ頂き有難うございました。まぁ、こんな私の話に少しでもご興味を頂き気持ちが変わりましたら、ご迷惑とは思いますが連絡先をお渡ししときますので。へい直ぐに捨てちまっても良いんですよ、私の連絡先など。それじゃ今日の所は失礼します。どうぞお気をつけて」と紙切れを握らせた。「有難うよ、吉さんも元気でね」と、言いつつ鈴枝もそれを受け取った。
明日に続く
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