診察室からコンニチハ(207)

日本でインフルエンザの名称が使われ始めたのは、幕末に蘭学者よりインフルエンザの名称が持ち込まれ、流行性感冒と訳されていました。日本でインフルエンザと呼ばれる以前は、江戸の人気芝居「お染久松」の「染」に掛けて俗に「お染かぜ」と言ったりもしていました。惚れた恋風に見立てた。民家の玄関に「お染御免」「久松留守」といった張り紙をしたという伝聞もあったらしいようです。
インフルエンザの歴史そのものはとても古いですが、インフルエンザの流行が科学的に立証されたのは比較的近年で、1900年頃からになります。 近年に発見されたばかりにも関わらず、100年足らずの短い期間に 「スペインかぜ」「アジアかぜ」「香港かぜ」「ソ連かぜ」と、4度ものパンデミック(大流行)がありました。
このそれぞれで、多大なる犠牲者が出ています。
その中でも、最も古い1917年~1919年にかけて大流行した「スペインかぜ」においては、全世界で6億人が感染し、死者は4000万人から5000万人だったと言われています。この猛威は当然日本でもふるわれ、人口の約半数が罹患し、約 40万人の犠牲者が出たと推定されています。
世界的に猛威をふるった例に関しては多くの記述残っていますが、それらを除いた上での日本国内の記録となると、明治6年2月から関西で、8月~10月に掛けて関東で大流行した「稲葉風」がインフルエンザと断定できる最初の流行とされています。
その後、明治23年(1890年)にインフルエンザは広く一般に「流行性感冒」として知られるようになり、昭和26年(1951年)2月2日付けの官報において「インフルエンザ」を公式の用語として使用する事が決まりました。
それ以前はどうだったのでしょうか?
インフルエンザと断定できる記述は、残念ながら確認されていません。しかし、インフルエンザではないかと推測させる記述は数多く残されています。
最も古い記述は三代実録(862年) という一般の書物で、その中には『1月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆(がいぎゃく)、死者甚衆…』と記されています。他には源氏物語・夕顔(1008年頃発刊)の 中に、『この暁よりしはぶき(風邪などのせきの出る病気)やみには侍らん』という内容があり、同時期の大鏡(1010年)では、『一条法王がしはやぶきやみのため37歳で死去された』とあります。
さらに増鏡(1329年)でも、『今年はいかなるにか、しはぶきやみはやりて人多く失せたまうなかに…』と記述されています。
このそれぞれに、『咳逆(がい‐ぎゃく):せきの出る病気』という言葉が出てきています。
医学という分野に目を向けてみると、日本で現存する最古の医学書である医心方(丹波康頼著)において、この『咳逆』を『之波不岐(シハブキ)』と訓読している記述が確認されています。
では、この『咳逆』というのは一体何を指し示していたのでしょうか。
実はこれ、平安・鎌倉時代に存在したとされる疾患名で、今日でいうとインフルエンザを示すものになる…そうなのですが、この時代にウイルスという概念は存在するはずもありませんので、インフルエンザ以外の風邪症候群、肺炎、肺結核等も含まれていると考えられています。
しかし、これらの事から少なくとも現在の私たちがインフルエンザと認識するような病状の悪性の風邪は確実に存在したと考えられます。江戸時代に入るとさらに記録は詳細になり、インフルエンザを連想させる疾患を「かぜ」或いは「はやりかぜ」と呼ぶようになりました。
さらに、この時期辺りからの特徴ですが、その年毎の流行の出来事をとって『○○風』と名づけたり、インフルエンザの流行の始まった土地名をとって名づける事が多くなります。
面白いものでは、安永5年(1776年)に流行した風邪についてですが、当時人気の高かった浄瑠璃「城木屋お駒」という毒婦の祟りという事で「お駒風」と呼ばれたとの記録もあります。
その後も、1784年の「谷風(横綱 谷風梶之助が罹患した事に由来)」、続いて1802年に長崎から始まって全国へ広がった「お七風(当時の八百屋、お七の小唄が下世話に流行っていた事より)」、1807年の「ネンコロ風(ねんねんころころ節という小唄が流行っていた事より)」、1821年の「ダンホ風(当時人気だった小唄のおはやしに”ダンホサン・ダンホサン”とあった事より)」等があります。
そしてこれ以降は、地域名が用いられ、「薩摩風(1824年)」、「津軽風(1827年)」、「琉球風(1832年)」、そして1856年の「アメリカ風(開国により下田に上陸した米人が流行させた、とう噂より)」といった呼び名がつけられました。
ちなみにですが、日本国内においてインフルエンザという単語が初めて本等に記述されたのも、江戸時代になります。
江戸神田の種痘所設立の発起人である伊藤玄朴(1800~1871年)が自身の著書、医療正史(ドイツ医学書をオランダ語訳したもの をさらに日本語に訳したもの)の中において、『印弗魯英撒』と和訳したのが初めてになります。
さて、ここまでインフルエンザ歴史を平安から江戸時代にかけて掘り下げてみましたが、そのルーツは意外と深いものです。実際、この程度の情報量では、氷山の一角にも満たないでしょう。
ですが、インフルエンザと人との関わりがはるか昔から連綿と続くものである、という事は感じて頂けたと思います。
次回に続く
【コロナウイルス時事情報】
それにもかかわらず、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」をめぐって「水際パフォーマンス」を繰り広げました。安倍政権お得意の“やってる感”を演出しようとしたのでしょが、厚労省の役人の独断専行で、かえって船内感染を広げ、あげく諸外国のメディアから酷評される始末となってしまいました。
そして誰もが不思議に思ったのは、約3,700人の乗客、乗員全員のウイルス検査をなぜしないのかということだったのです。
国内でも「既にウイルスが入り込み街の中で散発的な流行が起きていてもおかしくない」とする日本感染症学会の見解がありながら、厚労省の方針で湖北省と無関係な人は検査の対象外とされ、そのためウイルスが日本の街中にどのように広がっているかについてはベールに包まれたままだったのです。
おしりに火のついた政府が民間の検査会社の助けを借りて検査体制の拡充に乗り出したのは2月12日になってからでした。
株式会社エスアールエルSRLは、厚生労働省及び国立感染症研究所の依頼により、新型コロナウイルスの検査を2月12日(予定)より受託することになりました。
SRLは日本国内の病院から送られてくる血液、便、組織などの検体を一日20万件もさばいているといわれています。ウイルス検査装置は最新式のもので、公的な研究機関とは比較にならないくらい手馴れているため、スピーディな検査が可能です。
今後はこうした民間の検査会社をもっと活用していくべきなのでしょう。政府が至急に予算をつけてメガファーマを誘致し、検査をSRLなどの民間会社にオーダーできるシステムを作り上げれば、混乱はここまで広がらなかったのではないかと悔やまれてならないのは私だけではないでしょう。
メガファーマの一つは、スイスの世界的な製薬・ヘルスケア企業「ロシュ」があります。
「ロシュ」のスタッフは、新型コロナウイルスが発見されるやすぐに現地に入り、さっそく検査ツールの開発に成功、やがて商用バージョンが民間検査会社にも投入されました。
それを報じたのが1月31日付ブルームバーグの記事でした。
スイスの製薬会社ロシュ・ホールディングは、中国で発生した新型コロナウイルスに対応する初の商業用検査ツールを投入しています。中略)同社では、数週間前に中国・武漢市を発生源とする新型コロナウイルスの存在が浮上した時に分子診断医から成る緊急対応チームが始動。スタッフが十分に配置された施設で数時間以内に診断が可能な検査ツールを開発しました。…新型コロナウイルスの感染拡大に備える他の国々からも注文を受けていると言われています。
日本のメディアで、こうした事実が報道されていません。「海外メディアが大きく報じましたが、日本メディアはほとんど扱いませんでした。緊急事態に際し、記者クラブ、役人、そのまわりにいる学者はどこを向いているのでしょう」
厚労大臣らの記者会見や、担当官僚のレクをうのみにして記事を書く記者クラブメディアの報道だけでは、われわれ国民は、世界から見て日本政府の対策がいかにズレているかを具体的に知ることはできません。
中国への渡航歴は?中国から来た人との接触は?など、いわゆる“湖北省しばり”で、一般市民を検査から切り離し、政府はこの間、ミスリードを続けてきましたが、自治体や医療機関の判断により“湖北省しばり”を突き破って検査を行う動きが広がるとともに、感染が急速に拡大しつつある実態が見えてきました。
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