潮騒は聞こえず(30)

鈴枝は浅草から北千住まで、どんな道をどうやって帰ったのか全くと言って良いほど記憶にはなかった。それぐらい吉次の話に心が揺れ動いていた。よりにもよってGHQの妾になる。それも相手は黒人だと言う。しかし吉次は囁く様に小声で「黒人ってのは苦労していますから、その分だけ情は深いですよ。苦労人は苦労人を知るって言うじゃないですか」と、巧みに付け加えた。GHQと言うだけでかなりの抵抗を感じていたのに、ましてや黒人とは。だからと言って他に何が出来るというのだ。12才の時から吉原で育ち、出来る事と言えば端唄と三味線の真似事ぐらいだ。そんなもので日本中が飢えて苦しんでいる今の時代に普通に食べて行けるとは、とっても思えない。昨日までは華族のお姫様とか言って、何の不自由も知らなかったお嬢様たちだってGHQに身を売っている時代なんだ。元はと言えば私なんか唯の百姓娘じゃないか。GHQだって黒人だって同じ人間だ。男と女の違いがあるだけだろう。生きて行くには行くだけの覚悟ってもんがなきゃ、どうにもならない。もしかしたら結婚なんて事ももあるっていう話だし、吉さんの話に乗って見るのも私の人生かもしれない。これまでだって私が自分で決めた道なんか一つもありゃしないじゃないか。鈴枝の中で始めの迷いが嘘の様に気持ちはどんどん固まって行った。
数日後、鈴枝の方から吉次に小女を使って、その黒人少尉と会うだけなら会っても良いと言わせた。吉次は使いに来た小女の返事を聞いて飛び上がるほど驚いた。まさかあの気位の強い鈴枝姐さんが、黒人に会ってくれるとは考えてもみなかったからだ。小女に小遣い銭を握らせて返した後、吉次は一人で笑いが込み上げて来るのを抑え切れなかった。
明日に続く
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