潮騒は聞こえず(31)

鈴枝から連絡を受け取った吉次は、その数日もたたない1946年2月20日黒人少尉(チャーリー)の非番の日に上野のミルクホールを彼等の出会いの場所に選んだ。初めから待合などで二人を会わせたくはなかった。出来る限り鈴枝を高くに売りつけたかったのだ。鈴枝にしたって気持ちは納得していたとしても、それと分かる待合などで初めから会うのは屈辱感以外の何ものでもないだろう。チャーリーにしたってコールガール紛(まが)いの女との遊びには少々飽きていたので、見合いのような、始めてのデートのような趣向には満足気であった。約束の午後5時ちょっと前に吉次と鈴枝はそのミルクホールに入った。5時丁度にチャーリーはやって来た。姿は少尉の軍服のままだったが、周りの誰もが気にはかけなかった。もうそんな光景に違和感を覚える日本人は殆どいなかった。鈴枝は正絹の一番良い着物に西陣の帯を身に着けていた。そんな上質な装いを街で見かける機会は、戦後この方ほとんど無かった。もちろんチャーリーにとっても初めての光景だった。日本髪の折り目正しい鈴枝の着物姿にチャーリーは口に出せぬ感動を心の底から味わった。今までの女は一体何だったのだろう。本物のゲイシャとは、こう言う女性を言うのか。ガールではなく生粋のレディだ。国に残した女房も含め、自分が初めて知る紛れなもきジャパニーズ・レディの姿がそこにはあった。チャーリーには芸者と女郎の区別が分かる訳も無く、ただ鈴枝の凛とした美しさに言い知れぬ憧れを抱いただけである。目の前にいる鈴枝はただの女郎ではなく熊沢が丹精して磨き上げた美の化身とも言えた。そしてその日、身に着けている総ては熊沢が買い与えたものである。女の性(さが)の本質は過去を振り返るより直面する現実をより見つめる事である。
「Hello! I'm so happy to see you.」と言いつつ、チャーリーは鈴枝に握手を求めて来た。鈴枝はチャーリーの握手には応じず小声で一言「サンキュー」とだけ答えた。チャーリーと吉次はコーヒーを一杯づつ飲んだが鈴枝は何も口にしなかった。吉次は「どうです、別嬪でしょうが」との思いでチャーリーに尋ねた。「How is she ? isn't she nice? 」そしてチャーリーの顔を見た。彼は顔中に笑みを湛え「Oh! wonderful, very nice!」と答えた。吉次はその後、不忍池近くの離れ座敷のある小料理屋に二人を案内した。チャーリーは吉次の顔を見て何時になったら二人きりにしてくれるんだと言う顔つきをしたが、吉次には彼なりの考えがあった。誰が初回で好きな事をさせるか。高級なものを手に入れるには、それなりの手続きってのがあるんだよ外人さんと、心の中で考えていた。吉次のそんな意図があって、その日は三人で夕食だけを共にして早々に別れた。チャーリーの目は不満気だったが、それを顔には出さなかった。終始ニコニコと笑みさえ絶やさなかった。次回のチャーリーの非番の日だけを確かめてその日は終わった。鈴枝は殆ど無言だった。立春とは言え春は未だ遠かった。
明日に続く
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