潮騒は聞こえず(32)

二度目も上野だった。2月26日のやはり夕方5時、駅近くの喫茶店だった。もちろん吉次も同席していた。この丁度10年前1936(昭和11)年に起きた2.26事件、陸軍皇道派青年将校が1483名の下士官兵を率い「昭和維新」と称して政府中枢を襲ったクーデター、これにより日本は軍国主義へと進路を大きく変えて行った。奇しくも同じ2月26日鈴枝の運命も大きく変わって行くのであろうか。
この日、鈴枝は「イエス」とか「ノー」とかのちょっとした受け答えはした。殆どは吉次が中に入って一人、英語やら日本語やらで喋りまくっていた。チャーリーも下手な日本語で鈴枝に色々と話しかけようとしていた。「スズエさん、キモノwonderfulね」と、彼女の顔を正面から見つめて言った。今日の鈴枝は小紋の着物に髪は「つぶし島田」であった。色気は最初の出会いより一段と増していた。吉次でさえ目を見張る思いがした。30分程して鈴枝が化粧直しに立ち上がって席を外した時を狙って、チャーリーが吉次に10ドル札を握らせ今日の所はこれで帰って欲しいと言って来た。一回のポン引き(注:売春の客引き)の手数料が2~3ドルも払えば上々だった時だから、10ドルは少なくはなかった。しかしそれで満足する吉次ではなかった。「Why! What?」と言って、その10ドル札をチャーリーに突き返した。さすがにチャーリーは少し驚いた顔を見せた。しかし吉次の行動の裏を読み取り、内心この野郎とは思ったが、何と言っても鈴枝の魅力には抗し難かった。ここで、わずかな金で吉次と争いたくもなかった。仕方なく「まあ、この礼は決して忘れない。しかし今日の所はこれで許してくれ」と言った意味の言葉で吉次の機嫌を取った。そしてもう一度吉次のポケットに今度は10ドル札2枚をねじ込んだ。それで吉次も少し気分を直した。そうこうする内に鈴枝が戻って来た。「姐さん、申し訳ないが野暮用がちょっと出来ちまってね、先に失礼しても良いかな」と、何か含んだ様な顔で尋ねて来た。吉次の言葉の意味は直ぐに理解できた。チャーリーとは今日で二回目だが、彼女が描いていた黒人像とはかなり違っていた。先ずは小柄である。170cmぐらいで身体も引き締まっている。態度も丁寧で紳士的だ。かっての日本の軍人の様に威張りくさって自分勝手ということもない。少し好意さえ感じ出していた。吉次が急に帰ると言い出し不安もあったが、初めから覚悟の上での行動だ。「そりゃ急な事で、でも用事なら仕方がないやね」と、鈴枝は軽く答えた。「それじゃ姐さん、勝手言って申し訳ないが今日の所は帰らせて頂きます」と、吉次は少し頭を下げた。チャーリーにも会釈して帰って行った。彼はウィンクで答えた。
それから鈴枝はチャーリーに誘われるまま外人専用のバーに付いて行った。先ずはビールが出てきた。チャーリーはグラス2杯を一気に飲み干した。鈴枝はグラスに唇を当てる程度の飲み方しかしなかった。横では大きなジュークボックスからジャズが流れている。チャーリーは急に鈴枝の手を握りダンスに誘いだした。握られた手はそのままにして鈴枝は「I'm sorry」と笑みを浮かべ首を横に傾けた。そして化粧を直しに行きたいと云う仕草でチャーリーの手をそっと外した。チャーリーもそれ以上の事はしなかった。鈴枝が化粧を直して戻って来るとチャーリーはウィスキーを飲んでいた。鈴枝もコーラを少しだけもらった。チャーリーはニコニコ笑ってジュークボックスの音楽に合わせて身体でリズムを取っている。そんな姿を鈴枝は温かな表情で見守っていた。チャーリーは必死で自分の欲望を抑えようとしている。花柳界で育った鈴枝は男の性の浅ましさを嫌と言うほど見ている。多くの男はもっと本能の趣くままに迫って来た。しかしチャーリーは違っていた。GHQと言う時代の支配者にもかかわらず自分を一人の女性として扱ってくれ、日本人のかっての将校よりは、はるかに好感が持てる。チャーリーが自己を抑制し、自分を正当な女性として性ではなく、人間同士の繋がりを求めて来るならば自分には彼を否定出来ないだろう。そこには白人でもなければ黒人でもない、ただの男とか女でもなく魂の寄り所を求めているのであるならば彼の何を否定すると言うのか。その日鈴枝は唇だけは許した。
明日に続く
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