潮騒は聞こえず(40)

1946年11月のララ物資の援助が始まるまでの日本は全国的に飢餓状態が続いていた。終戦直後の救援物資は同じ白人同士のヨーロッパに集中していた。日本人への救援物資活動は当初マッカーサーの意識には昇っていなかった。基本的に彼は白人社会の超エリート集団としての教育を受けていたので、人種差別の強い人間であった。
ララ物資(LARA: Licensed Agencies for Relief in Asia :アジア救援公認団体)は 1946年1月22日サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって「日本難民救済会」が設立された。反日感情が残るなかで「アジア救援公認団体」認可に際しては日系人と知日派のキリスト友会員の必死の努力があって1946年11月から1952年6月まで行われた。重量にして3300万ポンドの物資、乳牛や2000頭を超える山羊などもあり、食糧75%、衣類20%、医薬品その他5%と成っており、現在の推定金額で5千億円以上と言われ、この20%が日系人の血と汗の結晶であるとも言われている。戦時下では彼等日系人も白人社会の中で強い迫害に遭い、彼等自身が窮乏生活をしている時代の血の滲む様な救援活動であった。
当時のGHQは日本と言う国が再び国力を付け世界の脅威にならない様に憲法改正を含め三等国に貶める様な占領政策を基本方針としていた。朝鮮、中国、シンガポール、フィリピンその他の如何なる国の工業生産力をも上回ってはならない事が最大原則であった。つまりアジアでは最貧国の地位を半永久的に維持させる事が重要であったのだ。そしてマッカーサー率いるGHQの占領政策は着実に遂行されていた。1946年当時マッカーサー元帥は66才、彼はともかく日本の占領政策を速やかに成功させ、1948年のアメリカ大統領選挙に出馬したくてならなかった。しかし彼の思惑通りにはならなかった。1946年5月3日から始まった東京裁判(極東国際軍事裁判)が思った以上に長引いた。当初1年もかからないだろうと予想されていた裁判が2年半もかかり終結したのは1948年11月2日だった。こうして彼の大統領選の夢は実現しなかった。そして1950年6月25日の朝鮮戦争勃発、これにより日本の運命は大きく変わって行く。自由主義経済国(連合国)と共産主義国(北朝鮮、中国、ソビエト連邦)との正に世界を二分する大戦争が1953年7月27日までの3年間にわたり続いたのである。日本の占領政策など瑣末な問題と化してしまった。日本の工業生産力を最大限にアップさせなくては共産主義国との戦いに対応出来なくなったのである。日本をアジアの最貧国に貶める占領政策は根本から崩れ去ってしまった。話が大きく脱線している。
チャーリーと鈴枝はどうなって行くのかに話を戻さなければならない。しかし彼等二人の運命もこの大きな歴史のうねりの中で間違いなく翻弄されて行くに違いない。
明日に続く
関連記事

コメント