潮騒は聞こえず(45)

1946年6月12日の決行当日も梅雨の雨が降り続いていた。サンフランシスコからの大型貨物船は昨日の内に横浜港に着いていた。GHQが準備したトラックは50台だった。その中で日本側から徴収したトラックは30台である。それは殆ど強制に近かった。だから徳治のトラック3台がその中に割り込むのは造作も無い事だった。皆は例外なく自分の所のトラックが徴収されるのを嫌がっていたので、徳治が男気を見せて「私の様な半端な人間でも宜しければ何でもお手伝いします」と、役所に申し出ただけで担当役人は大喜びだった。GHQからトラックの準備は未だかと、矢の様な催促を受けていた彼等にすれば、徳治の申し入れは渡りに船だった。こうして、いとも簡単にGHQの鑑札許可書は手に入れた。これを運転席の窓ガラスに置いておけば横浜港であろうと米軍基地内であろうとも出入りはフリーである。
50台のトラックでは夫々の米軍基地に1日や2日で大量の軍需物資を運び入れる事が困難なのは、誰の目にも明らかであった。わずか50台で少なくても横須賀、立川、座間、厚木と夫々の基地に物資を正確に運び入れるのには思った以上の時間が必要である。ましてやGHQ自身のトラックは格段に少ない。徴収された日本のトラックにもGHQの許可書は運転席に提示されてあるとは言え、混乱は免れない。それに戦後の道路事情は今とは比べものにならないくらい悪く、舗装されていない道路は雨が降り続くと泥濘(ぬかる)んで、トラックの運転も思うに任せない。1時間で着く予定の所が2時間以上もかかってしまう事も度々であった。だから当初2日間の予定が4日以上かかっても仕事の達成率は8割にも満たなかった。また食糧品の保存技術も現代とは比較にならないくらい悪く、降り続く雨の中で使用に耐えず廃棄処分になる物資も多かった。6日間で横浜港からの軍需物資の運搬作業は終了したものの、物資が使用可能な状態で米軍の基地に運ばれたのは7割にも満たなかった。道路事情の悪さからトラックの横転事故、タイヤのパンクそれに物資の廃棄処分と幾つもの不運が重なった。
しかし、チャーリーと徳治たちに取っては幸運な出来事の連続だった。綿密に偽造された指示書、納品受領書等は十分な効果を発揮した。横浜港では日本語と英語の罵声が飛び交い混乱につぐ混乱が続いていた。そんな混沌とした作業現場では指示書の真偽を確認する余裕もなく、通り一遍のチェックがなされたに過ぎない。後日GHQ内でも物資の運搬作業がスムーズに行かない事で責任問題は持ち上がったが、自然発生的な事情が多く結局は誰も処分の対象にはならなかった。降り続く雨の中、作業連携の悪さで厚木基地に行くべき物資が立川に運びこまれたりする例や指示書そのものを取り違えるケースもあり、運搬先が本来の目的地と変わってしまった事も多くあった。
明日に続く
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