潮騒は聞こえず(46)

横浜港からの荷揚げは予定通り6月12日(水曜)午前9時から始まった。50台のトラックに荷揚げするのはかなりの労働と時間を要する。サンフランシスコから来たアメリカ人を除けば、荷役作業に関わっているのは殆んどが雇われた日本人だ。その周りをMP(憲兵)十数名が小銃を持って不測の事態を防止する目的で目を光らせている。雨が強くなったり弱くなったりで荷役作業は遅れるばかりだ。トラックの間を縫う様に米軍の下士官が指示書を持って走り回っている。50台のトラックには前日までに鑑札が配られており、先ずは鑑札No.1~10までのトラックに物資が運び込まれた。軍需物資は70%が食糧品、20%が衣類と医薬品、10%が銃器と弾薬である。銃器と弾薬はさすがに日本人のトラックに乗せる訳には行かないので、米軍の軍用トラックで極秘に運ばれる。衣類と医薬品も殆んどが軍用トラックに乗せられた。
チャーリーとその仲間達の手配で徳治が用立てたトラックにはNo.1~3までの鑑札が配られていた。1台のトラックに10人の荷役作業員が降りしきる雨の中で懸命に荷揚げしても2時間近くはかかった。人足頭がどんなに怒鳴っても、荷物を濡らさない様に、濡れる手で荷物を滑り落とさない様にと、気を遣いながらの作業はなかなか進まない。100人以上の作業員でNo.1〜10までの10台のトラックに予定の物資が運び入込まれ、夫々の目的地に向かったのは午前11時を少し過ぎていた。徳治のトラック2台は真っ直ぐ座間基地に向かい、残りの1台は借り受けていた文京区本郷の土蔵に向かった。土蔵の前では徳治の使用人10数名が時遅しと待ち構えていた。日頃米俵を運び慣れている彼らの仕事は早く、1時間もしない間に軍需物資の全てが土蔵の中に消えた。トラックは荷を降ろすと直ぐに横浜港に戻り、28台目のトラックの前方に紛れ混んだ。28台目の運転手は居眠りをしていた。
雨は益々強くなり荷揚げ作業はさらに遅れていた。100人以上の作業員もぶっ続けで働く訳には行かない。昼食も取らなければならないし、雨の日の仕事は肉体的限界にも近かった。如何に戦争に負けたからと言っても自分たちは奴隷じゃないんだと云う思いもある。人足頭も怒鳴り疲れている。荷揚げ作業は遅れるばかりだった。居眠り中の運転手は先程まで一人毒づいていた。「一体、何時まで待たせるんだ。これじゃ、夜中までかかっても50台のトラックに物資を積み込むなんて出来る訳がない」と、言いながら何時の間にか眠りこけてしまった。午後も3時を過ぎていた。
明日に続く
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