潮騒は聞こえず(50)

こうしてチャーリーと徳治の交渉は何とか成立したが、それから数日間は1200ドルの米ドル紙幣集めに徳治は奔走した。1ドル360円として43万2000円の日本通貨だ、現在に置き替えれば1億円近い金額だ。徳治は家財道具の全てを担保にして掻き集めるだけの金を集めた。この大胆な物資横領の遂行に当たってもトラックの借り賃や随所への賄い等で20万円近い金を使っている。土蔵の借り賃もある。ともかく大胆な犯罪を成功させるには、多くの人間の口をふさぐ為に思った以上に金がかかる。それに43万円以上の日本円を米ドルに替えるのも骨のかかる仕事だ。あの闇屋の業突くババアでは手に余る。欲深な吉次にも出来たら頼みたくない。結局は父親の代から時折は世話に成っていた関東一帯をしきる侠客の頭(かしら)に訳を話して頼んだ。頭は多くを聞かず引き受けてくれた。手数料も殆んど受け取らなかった。徳治は次の日、夜陰に紛れ米1トンを頭の家に送り届けた。番頭達だけではなく徳治自身が先頭に立って指図した。夜も遅い時間、突然にやって来た徳治を見て頭は「徳治さん何事だい」と一瞬、驚いた顔をしたが事の事情を直ぐに察して「あんたも親父さんにそっくりだ。義理難い男だね。有難う、遠慮なく頂くよ。また俺に用があったら何でも言っとくれ。あんたに俺の跡目を継がせたら俺も安心して死ねるんだが、そんな事は亡くなった親父さんが許してはくれないだろう。まあ良いわね、今晩の所は気をつけてお帰りなぁ」と、70に近い頭は徳治のトラックを何時までも見送っていた。こうして1200ドルの紙幣は何とか調達できた。しかし吉次が黙って見過ごしてはいなかった。始めの情報料1万円、次にチャーリーとの分け前の交渉料500円、さらに交渉が手間取ったからと恩着せがましい顔で1000円を要求して来た。徳治はこれも渋々支払った。これで吉次は危険な仕事には一切手をつけず1万1500円ものあぶく銭を手にしたのだ。それだけではない、今度はチャーリーにも100ドルの要求をして来た。彼は顔に怒気を露しながらも50ドルだけは叩き付けるように手渡した。徳治からも、そうとうの金をせしめている事はチャーリーも薄々感づいていた。徳治は信頼出来そうだが、吉次の欲深さは際限なくビジネス相手としは危険極まりない。やはり仲介には信頼出来る日系人がどうしても一人は必要だ。そうしないと徳治とのこれからのビジネスがやりにくくなる。誰か仲間に引き入れられる日系人はと色々考えあぐねて、一人これと思える人間が頭に浮かんだ。数ヶ月以上前にジョン鈴木が日本人の女子校生をレイプした事件があった。私服でいたので日本人と間違われ警察官に現場逮捕されそうになっていた。そこを偶々チャーリーが通りかかり「彼は日本人ではないから私が預かる」と言って、そのままジープに乗せ事件そのものを揉み消してしまった。鈴枝と知り合う少し前の事である。日本人の彼女と恋仲になっている今の心境だったら、ジョン鈴木をそんな風に庇ったかは疑問である。28才の下士官だった鈴木は、その日かなり酒によって魔が差してしまったのだろう。
明日に続く
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