潮騒は聞こえず(53)

好事魔多し、正に徳治の仕事が絶好調の1948年の紫陽花(あじさい)の季節に、かねてから寝込んでいた妻の節子が眠るように逝ってしまった。33才の若すぎる命の灯火が消えてしまったのである。一カ月近く徳治は仕事に身が入らず毎日、飲んだり寝たりの生活を繰り返していた。節子との12年間の夫婦生活の過去に意識が埋没していたのだろう。梅雨の雨は止む事を忘れ降り続いている。何の為に俺は 働いているのだろう。節子と子ども達の為ではないのか、その節子を失なった今、徳治は生きる目的の半分を失いかけていた。7月に入って直ぐに次女の智子が高熱を発した。3才の幼子は食事も取れず夢にうなされているのか「おかぁちゃま、おかぁちゃま」を盛んに連発している。節子を失った悲しみに俺一人が甘えている時じゃない。残された子供たち二人の方がより深い悲しみの中にあるのだと、その時徳治は初めて自覚した。節子の分まで俺が、この子等の面倒をみなくてどうするのだと云う自戒の念で、この1ヶ月間余りの自分のだらしのない生活を恥じた。次女の智子は麻疹だった。1週間程で熱も下がり体力も順調に回復していった。そして徳治の気力も回復していった。ジョン鈴木を通してチャーリーとのビジネスは年に数回ほどの頻度で続いていた。さすがに横浜港での様なダイナミックな物資横領はなかった。厚木から座間までの運搬作業中の事故(故意)があったり、物資の点検ミス(故意)があったりと彼等の横領テクニックも日々、手が込んで来た。横浜港からの大型貨物船の物資運搬も年に1度ぐらいの頻度で続いていたが、彼等はトラック2台分程度の横領に留め、より慎重に行動し大きな欲をかかなかった。彼等の懐自体が以前の様に貧弱ではなくなっていた。それでも一度覚えた甘い味は簡単には忘れられない。チャーリーと鈴江の生活も経済的余裕が加わって精神的にも幸福な日々が続いていた。その分だけ極端に危険な仕事に手を出す動機が薄らいで来た。しかし金は有ればあるほど良いに決まっている。そんな何人もの思惑が絡み合って、物資横領はそれなりに続いていた。徳治の懐にも月に5万円程度の金は転がりこんでいた。それはそれで甘い汁には違いなかった。しかしそれ以上に彼は確実に事業拡張を押し進めて行った。一米問屋では物足らず、先ずは上野駅前で観光客に特化した旅館業に着手し、次は銀座で寿司屋の店を始めてみた。どれもこれも順調に回転していた。
明日に続く
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