潮騒は聞こえず(55)

1950年6月25日午前4時に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。その30分後には北朝鮮軍10万人の兵力が38度線を越えた。前線の韓国軍では、一部の部隊が警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だった事もあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の指揮系統は混乱していた。李承晩への報告は北朝鮮軍の奇襲後6時間もたってからであった。こうして戦闘準備の整っていなかった韓国軍は各所で敗退した。しかし奇襲2日後の6月27日頃からは韓国軍の応戦体制も整いつつあった。総司令官マッカーサーは日本にいて朝鮮半島の緊迫した情勢を把握したのは奇襲攻撃開始後1時間余り経った25日午前5時過ぎだった。6月28日にソウルは北朝鮮軍の攻撃により陥落した。6月29日にマッカーサーは東京の羽田空港より朝鮮に入り、自ら戦場を歩き回った。すでに70才を超えていたが。その後も8月中旬頃まで韓国軍は敗退に敗退を重ねていた。しかし9月15日、アメリカ軍と韓国軍の約7万人がソウル近郊の仁川から上陸する、「仁川上陸作戦」に成功した。ここからは韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始され、戦局は一変した。10月20日には北朝鮮の平壌を制圧、10月26日には中朝国境の鴨緑江にまで達し、連合国側による朝鮮統一間近にまで迫った。しかし11月からは中国人民解放軍が本格的に参戦、さらにソ連の援助によるジェット戦闘機の投入により国連軍はまた後退を重ねる戦況へと変化していった。しかし国連軍もジェット戦闘機を投入し、戦況は一進一退となり、それまで独断専行癖の強かったマッカーサーはトルーマン大統領の信任を失い、連合国最高司令官の地位を1951年4月11日に解任された。こうして戦況は膠着状態となり1953年7月27日38度ラインで休戦協定が結ばれた。この戦争での死亡者数は韓国軍20万人、韓国市民40万人、アメリカ軍3万3千人、一方の北朝鮮軍は26万人、北朝鮮市民50万人、中国人民解放軍78万人、中国市民40万人と記録されている。
さて、チャーリーはこの戦争にどの様に加わって行くのか、そして鈴枝の運命はどの様な流転を迎えるのか。
明日に続く
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