潮騒は聞こえず(56)

1950年9月初旬チャーリーに朝鮮への転戦命令が下った。鈴枝との幸せな日々は4年半にしか過ぎなかった。命令指示書から出発までは5日間しかない。この年の6月に朝鮮戦争が始まってからは、この日の来る事は覚悟していた。しかし鈴枝との別れは辛かった。こんなにも愛し合っていたにもかかわらず子供には恵まれなかった。鈴枝の手元には1千ドルが残された。日本円で36万円、何年間は十分に食べて行けるだろう。急激な物価高の時代ではあったが、大学卒の初任給が1千円にも届かなかった時代である。しかし事はお金の問題だけではない。朝鮮では激戦が続きアメリカ軍の戦死者も数多くいると言う。チャーリーが無事に帰って来れるかどうかは、何の保障もない。しかし鈴枝は笑って見送るしかない。戦の前の涙は禁物である。それでも戦地に赴く旅支度をしながら鈴枝の瞳からは涙の一滴(ひとしずく)、一滴が次から次へとチャーリーの軍服の上にしたたり落ちた。彼女は急ぎ涙で濡れた軍服を乾いたタオルで拭き取った。でも涙の染みは完全には取れなかった。こうして9月9日、まだ残暑の厳しい日の朝焼けの中、チャーリーは座間基地から飛び立って行った。しかし日本経済は、この朝鮮戦争を境に最貧国のどん底から一気に特需景気で湧き上がった。戦争勃発直後の1950年6月に米軍の在日兵站司令部が設けられ、日本からの大量の物資が買い付けられた。1952年3月には日本企業での兵器生産の許可(実質的な命令)が下された。この結果、連合国による日本からの買い付け契約額は1955年までの5年間で36億ドルに達したと言われている。国内総生産は10倍近くにまで急上昇した。日本での工業生産を徹底的に抑制していたGHQの占領政策は180度の方向転換となった。朝鮮戦争による東アジア冷戦の本格化で日本を反共産の砦にする必要が出て来たのである。この特需景気は徳治の事業拡張を更に加速化していった。終戦直後の米問屋の影は何処にもなく、今や上野、銀座、新宿と幾つもの飲食業を中心に店を拡げて行った。わずか7、8年前の軍需物資横領は遠い昔の出来事になっていた。その後、道子との関係は夫婦同然の生活が続いていた。チャーリーの生死は誰の耳にも聞こえては来なかった。正式の入籍を果たしていない鈴枝の元に米軍からの連絡が来るはずもなかった。朝鮮の山河で死に絶えたのかもしれない。手紙一本、電報の一つも鈴枝の所には届かなかった。1955年、徳治48才、道子33才となっていた。3人の娘たちも、紀子12才、澄子11才、智恵10才と夫々に成長していた。徳治の事業拡張が進むにつれ、誰彼ともなく後継ぎの問題を気にする者が多くなって来た。徳治の心の何処かにも男子の後継者を欲する気持ちが強くなって来た。何故か道子との間には一人の子供も授からなかった。
明日に続く
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