潮騒は聞こえず(59)

午後1時半頃、清吉と紀子は病院脇の中華料理店でラーメンを食べた。二人とも朝から何も食べていなかったので、少し落ち着いた。それにしても手術は成功するのか、そればかりが気になるが今はただ祈るしかない。また病院に戻り手術室前で二人は待ち続ける。3時間、4時間と何時果てるともなく時は過ぎて行く。気の遠くなる様な長さだが待つしかない。冬の夜は早い、病院の窓から見える景色は暗い。商店の灯りが心なしか寂しく映る。朝から降り続いていた霙は小雪に変わり、胸の内の不安も増すばかりだ。夜9時、やっと手術室のドアが開いて医者が疲れ切った面持ちで出て来た。二人は立ち上がり「先生!」とだけ言って医者のそばに近づいた。「一様、手術は終わりました。直径8cm大の血腫は無事に除去出来ました。今の所、脳内の出血は止まっています。後は本人の生命力の問題です。今日はお帰り頂いて結構です」と言って軽く一礼した。清吉が納得しかねる様子で「先生、これで父は助かるのでしょうか」と、詰め寄るように尋ねた。「これから一週間ほどが大きな山場です。それを乗り切れば助かるでしょう」と、質問に答え医者は再び手術室に戻っていった。しかし、それから10日たっても貞雄の意識は戻らなかった。人工呼吸器も外れなかった。さらに5日たって病院から呼ばれて医者から気管切開の必要性を説明される。「思った以上に意識の回復が遅れています。人工呼吸器も外せません。これ以上、口腔内から人工呼吸器を取り付けていると気管内の損傷と潰瘍化が進行する恐れが出て来ます。一般的にいって人工呼吸器の長期化が考えられる場合は気管切開をお勧めしています」清吉が体を乗り出すようにして「気管切開って、どんな事をするのですか」と、尋ねる。「のど仏の下から切開して呼吸抵抗を楽にします」「喉から穴を開けるのですか」「その通りです」清吉はまた食い下がるように聞いた。「その気管切開をすれば、父の命は間違いなく助かるのでしょうか」「間違いなく助かるかと言われると困ってしまうが、助かる可能性が高く成るとは言えます」と医者は苦し紛れに答えた。「分かりました。少しでも助かる可能性があるなら、その気管切開をやって下さい」と、膝頭を握りしめつつ彼は頼んだ。横から紀子が急に口を挟んだ。「でも、あなた喉に穴を開けるなんて、あの自尊心の強いお父さんが納得するかしら。先生、一つお聞きしても良いですか」「はい、どうぞ」「その気管切開をすれば確実に父は助かるのですか」「いや、そうは言っていません。助かる可能性が高いと、今もご説明した通りです」と、少し面倒くさげに答えた。「ね、あなた。気管切開なんて止めてお父さんの生命力に賭けましょうよ。私だったら絶対に嫌だわ、例え命が助かったとしても喉に穴を開けたまま生きているなんて」と、何時になく紀子は自分の主張を押し通して来た。そこまで言われ清吉も迷い始めた。確かに鼻っ柱の強い、あの父親が喉に穴を開けたままでも生きていたいと思うかと。「先生、申し訳ありませんが少し考えさせて下さい」「どうぞお二人でゆっくり話し合ってみて下さい」と言って、医者はそのまま席を立ってしまった。
明日に続く
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