潮騒は聞こえず(61)

中学校を卒業したら直ぐに大工の修行をさせる積もりでいた貞雄であったが、妻富江の母が清吉をどうしても高校までは行かせると言ってきかなかった。義母に強く言われて貞雄も仕方なく引き下がった。清吉も高校に行くよりは早く大工修行の道を歩みたかった。しかし当時、一家の生活の中心であった義母(清吉の祖母)の言葉には誰も逆らえなかった。「大工は修行と勘だ。高校なんぞ行って何になる」と、貞雄は主張したが、「これからは何事も学問だ。勘だけで戦争なんかやっていたから、アメリカに負けたんじゃないのか。嘘八百の大本営発表に日本中が騙され、この様じゃないか。これ以上、お偉いさんの嘘に騙されない為には、大工だって左官だって最低の学問はしなきゃならないんだ」とまで言われ、貞雄もそれ以上の口答えは出来なかった。むろん14,5の清吉に何かの意見を挟む余地はない。そして清吉は言われるままに高校へと進学した。高校2年の始めぐらいから食堂「ことぶき」が忙しくなり、学校から帰るなり店の手伝いをさせられる事が多くなって来た。パートの店員は当てにならず出入りも激しかった。67才の祖母は気合こそ勇ましかったが、段々と実際の仕事からは遠ざかりつつあった。夕方の客の多い時間帯は、母富江と清吉の二人が働くしかなかった。高校2年の夏休みからは厨房にも入る様になり、若い彼は勘も良く覚えも早かった。料理の腕前もどんどん上達していった。こうなると学校が本業か、食堂の板前が本業かの区別が付かなくなって来た。始めの間こそ高校に行って学問をするんだと息巻いていた祖母も、自分の体力の衰えと共に話す勢いは萎んでいった。そして清吉が高校卒業直前の2月、祖母は急な流行り病で4,5日寝込んだと思う間もなく帰らぬ人となってしまった。そう云う幾つもの事情が重なって高校卒業後の清吉は嫌でも食堂「ことぶき」で働くしかなかった。彼なくして食堂の経営は最早、起ち居かなかった。そんな息子を貞雄は横で忌々しげに見ていたが、事の成り行き上どうにも口の挟みようが無かった。それにも増して貞雄もまた大工仕事がそれなりに忙しかった。富江と貞雄の夫婦関係はそれぞれが別の仕事に専念しながらも、奇妙なバランスを保っていた。しかし現実には食堂経営の実入りの方が、大工仕事よりずっと良かった。それでも貞雄は自分の仕事に誇りを持っていたので、夫としての威厳は何とか維持していたし、富江も表面的にはいつも夫を立てていた。1953年、それまでバラック小屋同然だった「ことぶき」を、46才の貞雄が曲がりなりにも一軒家の建物に作り上げて行った。日頃から自慢するだけあって、釘一本使わない木組みの丹精した家だった。当時、中学2年だった清吉は父親のそんな仕事振りに強い憧れを抱いた。自分も父に負けない大工職人になるんだと純な心が胸の内で叫んでいた。一家の主人として貞雄が最も輝いていた時期でもある。富江もそんな夫に改めて惚れ直していた。
明日に続く
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