潮騒は聞こえず(62)

月日は人それぞれの上を同じように流れて行く。しかし運命の糸は時に哀しく、または残酷に、あるいは優しく絡み合い、ある人たちには幸(さち)を、他の人たちには不幸のみを与え続けたりする。この世の多くは決して公平には出来ていない。さて鈴江の運命はその後、どうなったのであろうか。チャーリーとの再開は適ったのであろうか。1950年9月10日まだ残暑の厳しい朝焼けの中、座間基地から朝鮮へと飛び立った彼の運命は、どうなったのか。彼は9月15日からの連合国軍「仙川上陸作戦」に加わり、北朝鮮軍を中朝国境の鴨緑江付近まで追い詰めて行った。10月下旬には連合国軍による朝鮮統一は間近に見えた。チャーリーも、この戦争は早々に終了し遅くてもクリスマスには、愛する鈴枝の元で楽しい日々が送れるものと期待していた。進軍に次ぐ進軍で未だ鈴枝に手紙の一本も出してない事は気にしていたが、手紙よりは自分の元気な顔を見せる事が重要だと考えて毎日の忙しさに追われていた。しかし11月には中国人民解放軍が参戦し、さらにソ連のジェット戦闘機までが加わり連合国軍は一転して敗走を余儀なくされた。12月、鴨緑江水源の白頭山は厳寒の地となっていた。優に−30°は超えていた。中尉に昇進していたチャーリーが率いる中隊300名は白頭山、山中深くを斥候偵察の任務に就いていた。午前11時前、北の空から大量の爆撃音が聞こえて来た。兵隊の一人が大空を指差して「ソ連機だ!」と叫んだが、真っ白な雪に覆われた山中では何処にも隠れ場所がない。「雪洞を掘れ」と、チャーリーが大声で命じた。10名が1組になって懸命に穴を掘り続けた。積雪は10mを超えている。何とか5mいや3mでも掘れば命が助かるかもしれない。チャーリーの号令の後、命掛けの作業は続くが何と云ってもシャベルがあるわけでもなし、小銃の柄と何枚にも覆われた手袋の手では作業は遅々として進まない。ものの5分もしない内にソ連機は頭上に迫っていた。1mでも掘り下げていれば上出来だった。それさえも20個ぐらいが何とか出来たに過ぎない。その僅かな空間に夫々が必死に身を隠した。ソ連製のジェット戦闘機から機銃掃射が一斉に火を噴いた。真っ白な雪の山中は瞬く間に血の海と化した。10分程の機銃掃射で、ほぼ全員死亡と認めたソ連機は再び北の空に舞い戻って行った。未だ昼前だと云うのに白頭山の山中は死の匂いで満ちていた。中隊300人中12名だけが死の淵から奇跡的に逃がれた。中隊長のチャーリーは誰よりも早く血の海に漂い絶命していた。しかし、その奇跡的な生還者の中に、あの下士官アントニーが存在していた。彼は茫然たる意識の中で血みどろに変わり果てたチャーリーの死体を目にした。無意識に近い行為の中で左手からチャーリーの腕時計を外し、自分のポケットにねじ込んだ。生還者12名の中で無事に帰属する大隊に帰り着いたのは7名にしか過ぎなかった。他の5名は道に迷ったり、そのまま凍死してしまった。そして又、月日が行き交い朝鮮戦争が停戦となった1953年9月、アントニーは座間基地に戻って来た。チャーリーが去って3年、鈴枝は未だ二人の愛の巣でひっそりと暮らしていた、チャーリーが帰る事を信じて。その9月も末、アントニーが鈴枝の元を訪ねて来た。血だらけのチャーリーの腕時計を持って…。その時計ベルトにはS.C.と書かれた刺繍が、微かに読み取れた。鈴枝が彼の武運を祈って縫い込んだ二人のイニシャル、鈴枝、チャーリーのSとCである。彼女は血で汚れた腕時計を顔に寄せ声もなく頬を濡らしていた。涙は果てしなく続いていたが、アントニーは無言で見ているしかなかった。
明日に続く
後一つだけ鈴枝の運命について語る必要がありそうだ。チャーリーの戦死を聞かされた後もさらに数年は同じ基地に隣接する彼との借家に住んでいた。彼との思い出が断ち切れなかったのだろう。その間にも勧められる縁談が幾つかはあったが、そのどれにも笑って答えず37才の年に京都に行き、鈴江は髪を切って仏門に帰依した。12の年から親元を離れ、何の為に生きて来たのか、自分を愛しんでくれた人たちは次から次ぎへと、この世を去ってしまった。この25年間、俗世間の荒波に流され自分と云う者が何だかも分からず生きて来た様な気がしてならない。今はもう静かに生きたい。誰を怨むでもなく心の安静が欲しい、そんな思いの解脱だった。
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