潮騒は聞こえず(65)

真夜中の電話、何だろうこんな時間に。紀子が枕元の目覚まし時計に目をやると、午前3時半だ。伊豆の病院からかな、貞雄の身に何かあったのだろうかと、思いつつ一階レジ脇の電話口まで下りて行った。「もし、もし、吉沢さんのお宅ですか」「はい、吉沢ですが」「こちらは小田原警察署です。失礼ですが村田道子さんは、そちらの知り合いですよね」「はい、私は村田道子の娘ですが、それが何か」「実は村田道子さんと思われる遺体が発見されたのですが、確認に来て頂けますか」「母が死んだと言うのですか、何故?」「村田さんがお勤めの旅館、丸菱が火災で大半が焼けてしまったのです。酔った客の寝タバコが原因ではないかと、もっか原因は捜索中ですが、ともかく至急にいらして下さい。小田原警察署の清水と言えば分かる様にしておきますから」「清水さんですね、小田原警察署に行けば良いんですね」「そうです、それでは失礼します」「有難うございました、なるべく早く伺います」電話を切った瞬間に緊張感から解き放たれたのか、紀子は電話口の脇に座り込んでしまった。清吉も二階から下りて来た。「お母さんが死んだとか言っていたが、何の事だ」「私にも何だか分からないんです。でも警察の電話で母らしい遺体が見つかったと言うのです。ともかく小田原の警察署に行って見ます」と、意識もそぞろだ。「俺も一緒に行こう。店の方は臨時休業にすれば良い。お前の親は俺にとっても親だ」と言われ、「この人はやはり自分の夫なんだ」と、清吉の膝の上でしゃくり泣きしてしまった。泊まりがけも起こり得ると1,2泊の用意はして新宿から小田急線で小田原駅に向かった。1971年、紅葉の季節であったが早朝なので駅に降りる人は少くなかった。逆に新宿に向かって乗り込む出勤客が多かった。自分達だけが他人とは別の方向に歩いている事に奇妙な不安を感じた。小田原警察署に着いたのは午前7時を少し過ぎていた。警察署の受付で「吉沢と申しますが、先ほど清水さんからお電話を頂いたものですが」と、紀子が恐る恐る挨拶をした。「吉沢さんですか、少しお待ち下さい。お~い、誰か清水警部補を呼んで来てくれ」と、受付の巡査が呼ぶ間もなくすぐに、清水警部補と呼ばれた40才台前半と思われる警察官が現れた。「これは朝早くから、ご苦労様です。村田道子さんの娘さんですね。え~と、吉沢さんでしたね」「はい、先程お電話を頂きました吉沢です」「そちらの方は?」「主人です」と言われ、清吉が軽く頭を下げた。「まだ確定した事実ではないのですが、酔った客が寝タバコをしていて、そのタバコが枕元の新聞紙に燃え移ったのではないのかと云うのが消防署の見解です」「それで、母は本当に死んでしまったのですか」「はい、残念ながら」
明日に続く
関連記事

コメント