潮騒は聞こえず(66)

二人が通されたのは北側の奥まった遺体安置室だった。線香の香りと燻(くすぶ)ったカビ臭い匂いが部屋中に充満していた。哀しみと云うよりは絶望の淵に包まれる空間だ。まだ柩には納められていない遺体が三つ並んでいた。清水警部補は二人に左端の遺体を指で差し「こちらです」と言い自ら先に立って、その遺体の顔の白い布を外した。とても正視出来ないと思って紀子は身体の半分以上を清吉に預けていたが、目だけは布を外された顔を凝視していた。それは紛れもない母、道子の優しい顔だった。「顔の損傷がほとんど見られないのは、煙による一酸化炭素中毒による死亡が原因ではないかと、消防署が見解を述べておりました」と、鈴木警部補が横から説明した。紀子にとってはせめての慰めだった。幾ら亡くなったとはいえ、無残な死に顔を見るのは辛すぎる。「お母さんは綺麗や」と、清吉も紀子を庇うように一言、口から溜め息まじりの言葉を発した。紀子は清吉の左手を強く握りしめて「本当にね」と言いつつ、涙は止めどもなく流れた。清吉は何も言わず紀子の肩を愛しむ様に支えていた。鈴木警部補が「村田道子さんに間違いないですね」と、職務上の質問をして来た。「はい、間違いございません」と、清吉が代わって答えた。紀子は首だけでうなづいた。言葉が出なかった。清吉に支えられて立っているのがやっとだった。普段は無口で仕事にだけ真面目な夫が、この時ほど頼りに思えた事はなかった。頭は真っ白で言葉と云う言葉を失っていた。ただ母の手をとって、その胸に泣きすがりたかった。鈴木警部補が静かな口調で「検死確認の解剖はどうなさいますか」と、尋ねて来た。清吉も紀子も、その意味が分からなかった。その気配を察した警部補は「いや、ご家族の申し入れがあれば本当に一酸化炭素中毒による死亡なのかを司法解剖で確認しても良いのですが、どうなさいますか」と、聞いて来た。その警部補の言葉を聞いて紀子の意識が急激に目覚めて来た。「解剖って、母の身体を切り刻む事ですか」「はい、その通りです」「それって、どうしてもしなければ行けない事なのですか」「いや、今回の場合は犯罪の疑いが少ないのでご家族の希望しだいです」と、警部補は答えた。「出来たら、母はそのままにして下さい。私たちは、このまま母を静かに引き取らせて頂きたいのです。何をどうしたって母は戻って来ないのですから」と、紀子は警部補に自分の意思をしっかりと述べた。「分かりました、それではご希望に沿うように手配します」と、警部補は応じた。彼も夜間からの火災騒ぎで相当に疲れている様だった。道子49才、紀子28才、共に恵まれない母子の故なき別れであった。箱根路は今まさに紅葉の美しい季節だというのに。
明日に続く
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