潮騒は聞こえず(67)

道子、享年49才の初七日は誰知れずに過ぎ去った。清吉と紀子、二人だけの葬儀と言っても良かった。幾人かの弔問客は来たが10人にも満たなかった。もちろん徳治には知らせなかった。知らせれば義理堅い男だからそれなりに、分厚い香典袋を携えて焼香の一つにでも顔を出したかもしれないが、道子はきっと、そんな徳治を拒否するに違いないと紀子は確信していた。母のプライドの高さは、紀子が誰よりも知っている。それよりも何よりも紀子自身が徳治に会いたくはなかった。何をどう言っても自分たち母子を捨てた男だ。そんな男の憐れみなど誰が受けたいと思うものか。
ことぶきは7日間も臨時休業の札を出していたが、8日目には通常どおり店は開けた。客も数日で戻り、以前の忙しさで毎日が明け暮れるようになって来た。道子が亡くなって、この世に血の分けた肉親が一人もいないと云う現実は、何処にも帰る場所がないと云う意味に通じる。せめて子供の一人でもいれば、それが未だ物言えぬ赤子でも自分の生きる証しに繋がる。帰る場所は無くても心の拠り所にはなる。そして幼き者たちには限りない未来がある。その未来に夢を添えて、自分も生きる張り合いが持てる。そんな心の渇きから、紀子は道子が亡くなってからと云うもの、清吉と少しでも多くの時間を取るように努めた。仕事が片付いて清吉が一人入浴している様な時でも紀子は自分から進んで彼の後を追って浴室に入って行った。「なんだ、どうした!」と清吉が戸惑うのも構わず、「うん、たまには背中を流して上げようかと思って」と、微笑み返した。「背中なら一人で流せる」と気後れする清吉に、「馬鹿ね、一緒に入ったって良いじゃない。それとも私の事が嫌い?」「そんな事はないが…」「大きくて頼りがいのある背中だ事、洗いがいがあるわ。ねえ、私はもうあなた以外に誰も頼れる人はいないの。私の事を捨てたりしちゃ嫌よ」と言いつつ背中の後ろから抱きついて行った。清吉は少し狼狽(うろた)えながら、「誰がお前の事を捨てたりするか、今度のお母さんの事でお前は急に心細くなって来たんだ。大丈夫だ!お前の事は俺がしっかり守る」「本当ね、嘘ついたら嫌よ」「誰が嘘をつくか、俺には出来過ぎた女房だと思っている」「本当なの、嬉しい!」と言って、紀子の方から唇を押し付けて行った。清吉も、嬉しそうに応じた。ともかく紀子は、今程強く子供を望んだ事はなかった。どうしても血を分けた肉親が欲しかった。これまでは余り子供が欲しいとは考えていなかった。流産した時でさえ、それ程は深刻には捉えていなかった。しかし道子を亡くした今は、狂おしい程までに子供が欲しかった。夜寝床に入ってからも積極的に清吉の布団の中に入って行った。これまでには全くない出来事だった。
明日に続く
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