潮騒は聞こえず(68)

清吉に取って紀子は初めての女であった。生真面目で、ことぶきの店の切り盛りに高校時代から専念して来た彼に、年頃の多くの若者が費やす恋愛などと云う感情に、浸っている暇は何処にもなかった。紀子との結婚も、ただ親の言うがままに従っただけだ。その親にしても嫁を人手不足の解消ぐらいにしか考えていなかった。そんな形で成り立っていた結婚であるから、夫婦と云うよりは同居人に近い二人であった。もちろん時には夜の営みもあったが、ほとんどは思い出した様な稀な行為でしかなかった。紀子に取っても清吉が初めての男性であった。現在に比べると未だ、はるかに処女性が重んじられる時代でもあった。しかし道子の死を境に二人は急速に接近しだした。紀子の心の奥底にどの様な思惑があったにせよ、これまでは形式にしか過ぎなかった夫婦関係が、若い男女の新婚生活の様な日々となって、清吉は生きる事に限りない喜びを感じていた。妻が美しいとも感じた。紀子もまた清吉に男としての情愛を強く抱き始めていた。こうして紀子は三度目の妊娠をした。彼女が心の底から望んだ妊娠だった。清吉も心から喜んでくれた。紀子は幸福だった。結婚8年目で本当の夫婦になった感じである。清吉はパート店員の数を増やして紀子の仕事の負担を少しでも減らそうとした。これまでには考えもしなかった気の遣い方である。そんな清吉の気配りと紀子の祈りにも似た思いが通じて、お腹の子は順調に育って6ヶ月が過ぎた。医者からも、とても経過は良好であると言われ二人して「男の子か、女の子か」と、そればかりの話題が多くなって来た。口にこそ出さなかったが清吉は男の子を、紀子は母の生まれ変わりの女の子を欲しがっていた。でも清吉は「男でも女でも元気に産まれてくれる事が一番だ」と、快活に笑っていた。紀子の妊娠を知ってからは、伊豆の貞雄への見舞いは月に一度ぐらいに減った。それまでは二人で行っていた見舞いも、紀子の身体を気遣い彼が一人で行く事が多くなっていた。今の彼には父の貞雄より、はるかに紀子の身体を思う気持ちが強くなっていた。伊豆の温泉病院に移って早くも一年半以上が経っているが、貞雄は見舞いに来る度に元気を取り戻していた。今では病院の廊下ぐらいは自分一人で車イスの操作も、不自由な左手と左足ではあったが何とか使いこなしていた。言葉も以前よりはかなり理解しやすくなり、大体の意味は通じる様になって来た。そして病状の回復と共に温泉病院に移ったばかりの柔和な顔付きは、貞雄本来の我の強い表情に戻りつつあった。そんな父親に清吉は何故か紀子の妊娠を告げる気にはならなかった。それ以前、道子の災禍と葬儀に関しては一様の報告はしていた。しかし、そんな話を聞かされても貞雄はほとんど興味を示さなかった。病人特有の自己中心主義がなせる反応なのだが、それを話した清吉も同席していた紀子も良い気持ちはしなかった。それ以来、紀子は伊豆への見舞いに清吉と共に行こうとはしなかったし、彼も紀子を無理に誘いはしなかった。そんな気持ちも手伝って、清吉は父親に紀子の妊娠を告げる気にはなれなかったのだ。
明日に続く
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