潮騒は聞こえず(69)

妊娠8ヶ月の定期検診で逆子かもしれないと紀子は医者に言われ、少し不安を抱く。でも医者は、こう付け加えた。「まあ、この時期は半数近くが逆子ですから余り気にしなくても大丈夫ですよ。それより逆子を直す体操を教えますから、毎日少しづつやってみて下さい。その体操だけでも逆子の多くは直ります」との説明で、不安は薄らいだ。家に帰り清吉にも、その話しをしたが「医者がそう言うのなら心配ないのだろう」と、彼は余り取り合わなかった。それより夕方からの料理の仕込みで忙しかった。店は馴染みの客も増え常勤の板前も新しく一人雇い入れていた。女子店員もパートだけでは足りず、正職員として更に二人を採用していた。食堂の売り上げは伸びる一方で儲けも大きかった。一般的にいって流行っている飲食店は3割以上が純利益になる。それでいて税務申告は純利益の1割ぐらいしか出さなかったから金は溜まるばかりだ。日本中が高度成長期に入っていて、気のきいた店なら何をやっても儲かった。それでいて所得税は世界一高く、高額所得者の最高税率は90%近くと云う酷税だった。江戸時代から遡っても90%近い税率は過去に例を見ない。GHQ統治下の1950年シャウプ勧告により富裕層を一切認めないと云う発想に基づき採用された税制である。その結果、脱税が当然の如く世間一般で横行していた。一億円の所得があると手取りが一千万円になってしまうと云うのだから脱税するなと云う事自体が無理な話しで、この税制は戦後30年以上も続くのである。
話しは横道に逸れてしまった。9ヶ月目の検診でも逆子はまだ改善されていなかった。「このままでも大丈夫ですか」と、紀子は心配そうに医者に尋ねた。「大丈夫ですよ、まだ臨月までには1ヶ月近くもあるじゃないですか。いざと云う場合は帝王切開っていう方法もありますから」「お腹を切り開くのですか」「まあ、最悪の場合はそう云う事になりますが、大した手術ではないですよ、盲腸に毛の生えた様な手術ですよ」と、医者は気楽に笑顔で答えたが紀子の不安は逆に増して来た。でも今はともかく医者を信頼するしかない。家に戻り医者には言えなかった不安感を清吉に、あれこれ話して自分の気持ちを宥める。「お腹を切り開くのか、それは大変な事じゃないか。別の医者にも相談してみょうか」と清吉も本気になって心配してくれたので、彼女の不安は少しづつ落ち着きを取り戻して来た。
明日に続く
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