潮騒は聞こえず(71)

早朝未明の手術室は緊迫していた。胎児の死亡はすでに予測されていた。オペ前から胎児の心音は聴取されていなかったのである。妊娠9カ月になっても逆子であった事が今回は致命傷になっていた。紀子の身体の中では予想もしなかった病状が潜在していたのだ。彼女が救急車で運び込まれたのは陣痛の為ではなかった。別の病気が彼女の身体を蝕んでいたのである。彼女の腹部を開腹した二人の医師は、共に我が目を疑った。何と医師二人が目にしたのは逆子の胎児の頭部圧迫死である。直径10cmは、はるかに超える右卵巣嚢腫が茎捻転を起こし、胎児の頭部を圧迫し臍帯をも絡ませていたのである。何とも悲惨な光景であった。それなりに熟練した産婦人科医でも初めて目にする惨状であった。このままだと胎児は愚か、母体の生命そのものも極めて危険である。何から始めるべきか、先ずは胎児の摘出術が最優先されるべきだろう。一歩間違うと母体の生命そのものも危険に晒される。その際に重要な事は胎児摘出と共に胎盤剥離を、どれほど慎重に行うかだ。佐久間医師は脇にいるナースに輸血の準備と日赤への緊急輸血の要請を指示した。「さっきの帝王切開で使用しなかった2単位(400cc)の血液があったな」「はい」「何型だ」「確かA型だったと思います」「このKrankeは」手術台脇のカルテを見てナースは「A型です」と、即座に答えた。「そうか、それはラッキーだな。しかし今一度、その血液がA型であるか確認して来い」と命じられナースは急ぎ検査室へと走って行った。「間違いありません、A型でした」「そうか、ありがとう。じゃあ直ぐにクロスマッチ(輸血時の交差適合試験)をやってくれ。それと大出血の恐れもあるから400ccじゃあ足りないだろう。日赤に後600ccの血液の供給を即刻頼んでくれ。クロスマッチが終ったら手術にかかる」その後の少しの時間、手術室には重い空気が漂っていた。果たして母体の生命を助けられるのか、誰しも同じ思いを抱いていたが、誰も口にはしなかった。時は1秒をも争う、クロスマッチの結果を待つ時間も無駄には出来ない。1mmづつ丁寧に刻む様な胎盤剥離作業を進めて行った。胎児は臍帯の結紮を済ませ早くも摘出が済ませてあった。死産である事は確定していた。二人の医師にとって今や出産の問題は既成の事実として終了していた。直面する問題は母体の生存、それだけである。
明日に続く
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