潮騒は聞こえず(72)

しかし佐久間医師は、自分の手術中の手を止めた。「もっと、冷静になれ。胎盤剥離など外科的に出来る訳がないじゃないか。医師になって15年目の彼には、その剥離手術の経験もない。それがどれ程に難解で危険な手術である事かは、冷静になって考えれば分かりそうなもんだ」と、彼は自問自答した。陣痛促進剤を使用して子宮収縮を促進させる事が先決だろうと考え直した。第一DIC(播種性血管内凝固症候群)でも合併させてしまったら、体全身の出血が止められない。そうなったら内蔵中からの出血が止まらず、脳出血の危険さえ出て来る。産婦人科医の自分ではどうにも出来ない。血液内科のある大学病院でなければ治療の方針も立たない。ここの病院で対応出来る患者ではない。ともかく今、自分に出来る事は胎盤剥離ではなく、卵巣嚢腫摘出が先だろうと考え直し急ぎ、嚢腫摘出術を行った。術後は開腹した腹部を仮縫合し、至急に母校の京成大学に電話を入れた。後輩の当直医師が出て、彼の要請に応じてくれた。すぐに救急車が呼ばれ、佐久間医師と清吉が同乗した。清吉は何が何だか分からず「先生、紀子はどうなっているんでしょうか、赤ん坊は無事なのでしょうか」と、尋ねながらも殆ど泣きかかっていた。「今は緊急を要する事態で、残念ながら私どもの病院では十分な治療ができません。母校の大学病院に移させて頂きます。もう少し事態が落ち着いたら詳しく説明しますので、しばらく待って下さい」と医者に言われ、清吉はただ頷くしかなかった。大学での対応は驚く程に早かった。まだ午前7時過ぎだと云うのに産婦人科医は元より血液内科の医師までが招集されていた。それもベテランの医師だけをである。通常ではあり得ない事だ。佐久間医師の叔父が大学病院の理事長を務めていたのである。紀子夫婦にとってみれば幸運であった。佐久間医師は己の小さなプライドの総てを捨て、誰に泣きついても自分の患者さんの命を助けたかった。叔父の理事長に頼みこむ事なぞ彼の日頃の常識にはなかった。しかし、この時は何としても彼女の命を助けたかった。ここで胎児も母体も共に死なせてしまっては自分の産婦人科医の将来に大きな禍根を残すような気がしてならなかった。朝の6時近くにもかかわらず叔父の自宅に電話を入れ総ての事情を涙ながらに訴えた。その鶴の一声が発せられたのであろう、大学病院での驚くべき対応の速さは。その当時、陣痛促進剤は国内で販売されて日も浅く、使用経験も少くなかった。ましてDICに至っては死亡させてしまうケースの方が、はるかに多かった。それ程の難病を紀子は抱えていたのである。そして佐久間医師が危惧した通り、最悪の事態が紀子の身体を次から次へと襲った。陣痛促進剤の効きは悪く、翌日になっても子宮収縮は驚くほど悪く、その次の日になっても陣痛促進剤は十分な効果が発揮されず子宮収縮は遅延していた。その結果、胎盤からの弛緩性出血が簡単には抑えられず、連日の様に輸血が繰り返され、総輸血量は3000ccを越えた。更に最も恐れていたDIC(播種性血管内凝固症候群)までもが合併した。担当医師の多くは天を仰ぐ思いだった。毎日の輸血管理、出血傾向のチェック、24時間点滴によるヘパリン調整、凍結血漿の補充、彼等は考えられる事の総てをやった。大学病院への転院8日目で弛緩性出血は収まった。DICによる全身性の出血も10日目には軽快して来た。こうして紀子は奇跡的に命を取り留めた。しかし子宮は失っていた。その治療過程で子宮の存在が紀子の生命の安全を脅かしていたので、胎盤と共に子宮まで摘出されてしまったのである。

明日に続く
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