潮騒は聞こえず(73)

清吉は佐久間医師から色々な説明を受け、一様は納得していたが仕事には全く精が出なかった。雇いの板前が心配して「私が後はやりますから、旦那はしばらく休んでいて下さい」と言われ、休む様な仕事をする様な、身の置き所が無い生活が続いていた。病院に行っても、面会謝絶で紀子にも合わせてもらえず益々行き場を失っていた。
1973年1月末やっと紀子との面会が許された。全身の出血班が痛々しかった。でも紀子の身体がどの様になっていても、彼女が生き抜いてくれた事にはどんなに感謝しても感謝したりなかった。か細い声で「ごめんね、赤ちゃん」と言われた時は、それだけで清吉の胸は一杯になり声も出なかった。ただ紀子の手を握り、自分の頬にすり寄せ「良いんだお前さえ元気なら」と言って、いつの間にか二人して声もなく泣いていた。ともかく紀子だけは命を取り留めた。大学病院の医師がどれだけ紀子の為に精一杯の努力をしたか、それは清吉の想像をはるかに超えていた。彼等の多くは不眠不休で、一切の収入を求めず唯一つの生命を守る為に必死の努力をしていた。医師が「お医者さま」と言われた時代の話である。医師は正しく聖職者だった。一人の人間の命の重さは地球の重さと同じであると、戦後の民主主義教育は説いていた。彼等医師も、そんな時代の申し子だった。しかし時代が移り変わり義務よりも権利のみが追求される時代となっていた。多くの医療ミスをマスコミが被害者意識をあおって毎日の様に報道していた。ある一部の悪徳医師のみを、それらが全てであるかの様に煽り続けていた。そして医者のある者達は保身に向かい始めた。彼等は聖職者の道を避け、最も安全な道を志向した。皮膚科とか耳鼻科とか眼科とか、直接に生命的危機と向き合わずにすむ診療科を選ぶ者が多くなっていった。開業医はサラリーマン化し、貸しビルに立てこもり時間が来れば直ぐ家に帰ってしまう風潮が当たり前の時代となってしまった。かっての開業医は自宅診療が普通で、夜間の救急外来を当然の義務と考えていた。その分、彼等の平均寿命は一様にして短かった。もちろん現在でも全ての医者が使命感や志を低くしている訳ではない。不眠不休で救急医療に取り組んでいる医師は幾らでもいるし、災害地に進んでボランティア活動に携わる医師も決して少なくはない。ただ時代全体の流れが医療を安全志向から経済的合理性へと、緩やかに移行させているのだ。それは医師のみが責められるべき問題でもない。超高齢化社会が進行していく過程の時代では、厚生労働省が懸命に医療費抑制政策を推し進めて行く事でしか、国家財政のバランスを保てなくなっている。つまり国そのものが医療に厳しく経済的合理性を追求している。これも一つの大きな時代の流れではないのか。
まあ、それらの難しい話は忘れ、今は紀子の奇跡的な体力の回復を共に喜ぼうではないか。
明日に続く
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