潮騒は聞こえず(74)

紀子は大学病院で2ヶ月弱の入院生活を終え、春の節句の日に無事退院となった。その日は土曜で午前中は曇り空で、やや肌寒かったが昼からは日も差し過ごしやすい気候となっていた。昼少し前、紀子は清吉に抱きかかえられる様にして自宅前でタクシーから降りた。ことぶきの店の前では職員5名が「奥さん、お帰りなさい」と、拍手で迎えた。女子店員の中には、そっと目頭を拭く者もいた。店は臨時休業にして、紀子の快気祝いに当てていた。何か少しでも滋養の付く物をと、皆は張り切って沢山の料理を作っていた。皆の気持ちはうれしかったが退院したばかりの身体では、そんなに食べられるものでもない。それでも少しだけ手を付け「皆にはずいぶんと心配をかけて、すいませんでした」と、軽く頭を下げた。「いいえ、私たちは何も、それよりは旦那さんがお気の毒で」と板前が言うのを、清吉が「余計な事は言わなくて良い。ともかく紀子が無事に帰って来たのだ。今日は、お前達も存分に食べてくれ。誰か冷蔵庫からビールを持って来ないか」と、場の雰囲気を盛り上げようとした。そんな清吉を横で見て紀子は心から夫に詫びていた。とうとう自分は、この人に子供を作って上げる事が出来なかった。これからも子供は作れない身体になってしまったのだ。それでも皆の手前、無理にでも笑顔を作ってみせた。清吉もビールをコップ一杯ほど飲んで陽気に笑っていた。でも心の奥では泣いているに違いないと、紀子は感じていた。しかし清吉は、彼女が思う程には落ちこんでいなかった。赤ん坊が死産だと佐久間医師から聞かされた時は、確かに気の遠くなる様な失望感で立っているのもやっとだったが、次に子宮摘出の話が出た時は、自分より紀子の気持ちを考え涙が抑えられなかった。それにも増して紀子の生命そのものが極めて危険であるとの説明を受けた時は、さすがの彼も常人ではいられなかった。次から次へと襲って来る自分たち二人の運命の悪夢に、痴呆の様に突っ立っていたかと思うと何も言わず、そのまま外に飛び出してしまった。目を真っ赤に腫らしながら雨の公園を傘も差さず、ずぶ濡れのまま意味もなく歩き回っていた、病院のスリッパを履いたままで。それは正しく傍目(はため)には狂人の姿と写ったに違いない。
だが今は違う、少なくても紀子だけは返してもらった。例えこの先、二人の間にずっと赤ん坊が授からなかったとしても、それが何だと言うのだ。紀子の命を返してもらっただけで十分ではないのか、そんな思いの清吉になっていた。
明日に続く
関連記事