潮騒は聞こえず(79)

夜11時頃一階の店の方から客同士の口論が聞こえて来る。「何だと、明日の5日目は輪島が勝つに決まっているじゃないか。北の湖が勝つかもしれないと、馬鹿も休み休み言え。これまでの対戦成績を知っているのか、6勝1敗と圧倒的に輪島が勝っているんだ」「いや、北の湖も今場所から関脇になって勢いづいているから、これまでの対戦成績だけじゃ何とも言えないぜ」「何を言っていやがるんだ、この唐変木。輪島は先場所から横綱になっているんだ。関脇が何だと云うのだ!」「唐変木とは何だ!」「唐変木だから唐変木と言ったまでよ、文句があるなら表に出ろ」と、二人の客はかなり険悪な雰囲気になって来た。さすがに板前二人が仲裁に入った。「まあ、お客さん方そんなに大声を上げないで下さいよ。他のお客さんが驚いているじゃないですか。輪島は確かに強い、しかし北の湖も捨てたもんじゃないでしょう。それに勝負は時の運とも言うじゃないですか。こんな所で大声を上げなくても勝負は明日の楽しみと云う事で、仲良く飲んで下さいよ。さあ、後一燗で今夜は御積もりにしましょう。仲良く飲んで下さるなら、この一燗はサービスにしときますから」と言われ、さすがに言い争っていた客たちも冷静さを取り戻して来た。「まあ、私も少し言い過ぎた。どうも相撲の事になると、ついムキになって女房からもあんたは相撲気狂いと言われているほどなんですよ」「私も同じようなもんで、考えてみれば大の男が大声を出すような話ではないですね、恥ずかしい限りです」と、もう一人の客もすっかり落ち着きを取り戻していた。貞雄も相撲の話は好きだから、一階からの客の口論を聞いていた。聞いていたと云うより嫌でも聞こえてしまった。「何を言っていやがる、明日の相撲は輪島が勝つに決まっているだろう。横綱と関脇だ、格が違うじゃないか。くだらない話で大騒ぎする事か。酒に酔っ払って馬鹿騒ぎをするのも、いい加減にしやがれ」と、一人毒づいていた。自分がかっては酔っ払って、どれ程多くの人たちに迷惑をかけた事なんかは、すっかり忘れている。「それにしても、こんなにうるさくちゃ寝られやしない。そう言えば何年も酒を飲んじゃいないな。寝酒に一杯飲みたいもんだ。息子の奴は許してくれないだろうな。退院の時も清吉は医者から散々に注意されていたし。酒の一杯や二杯を飲んでもどうって事はないだろう。大体医者なんてのは自分は酒を飲んでいる癖に、酒は止めろ、タバコは止めろなどと出来もしない説教をぬかしやがるものと、昔から相場は決まっているんだ。それを堅物の清吉は馬鹿みたいに、守っていやがる。畜生、今晩はどうにも眠れそうにない。どっかに酒が置いてないかな」と、思っても不自由な身体では探し回る訳にも行かない。それに生真面目な清吉が父親の目の付くような所に酒を置いておく訳がない。一階に下りて行けば酒は腐るほど置いてあるのは知っているが、一人で下りて行くほどの体力もない。ぶつくさ言いながらも貞雄はそのまま何時しか寝てしまった。
明日に続く
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