潮騒は聞こえず(80)

朝8時に紀子が朝食を運んで来る。「昨晩のあの騒ぎは何だ!全く寝られやしないじゃないか」「すいませんでした。うちの店は割と静かに飲んで下さる方が多いんですが、たまにはどうしても酔っ払って大騒ぎする人もいるんですよね。本当に申し訳ありませんでした」と、詫びて一階に下りて行こうとする紀子を呼び止め、貞雄は「ところで少し頼みがあるんだ、俺はこの4年近く酒の一滴も飲んでいない。たまには寝酒の一杯ぐらいは飲みたいのよ、清吉に頼んでみてくれ」「分かりました、私から主人に相談してみます」「そうかい、ありがとう、まあ何とか頼むよ」「それでは、ゆっくり朝食を召し上がって下さい」と、言って彼女は一階に下りていった。彼女の心の中では「何が酒よ、毎日のように酒を飲んで隣近所との諍いも絶え間なく、警察の世話にも幾度となくなり、その挙句には脳出血まで起こし、大学病院では人工呼吸器まで何週間も付け、ようやく一命を取り留めたのに、それでも未だ酒が飲みたいのか」と、怒鳴りつけてやりたい気分だった。朝9時、清吉と二人の朝食がはじまる。夜が遅いので使用人たちの出勤時間は10時となっていた。1970年代、飲食業の店員は12時間以上の労働が普通で週休一日制も少なく給料も安かった。未だ日本中で安い人手が余っていた。 朝食を取りながら紀子は貞雄の話をした。「寝酒ね、寝酒ぐらいなら良いだろうが、直ぐに寝酒だけじゃ足りなくなるだろう。4年近くも飲まずにいられたんだ、親父の健康を考えれば許さない方が良いだろう。親父には俺から言っておくから心配しなくても大丈夫だ」と、言ってもらって紀子は安心した。父親に甘い夫の事だから、寝酒ぐらいなら良いだろうと言うかもしれないと、彼女はどこかで心配していたのだ。そのうち店員たちが出勤し始め、昼の仕込みが始まった。12:00ちょうどに昼食をまた紀子が運んで行く。「さっきの寝酒の話はしてくれたか」「はい」「それで清吉は何と言っていた」「後で自分で話すと言ってました」「そうか、分かった。じゃあ、飯でも食べるか」「では後でお膳は下げに来ます」と、言って貞雄の部屋を出た。昼飯時の忙しい時間帯である。しかし父親の食事時間は必ず優先した。紀子は毎食の膳運びが嫌で仕方なかったが、清吉の頼みもあり無下には断れなかった。昼食の掻き入れ時が終わり一呼吸ついた頃、NHKから放映される大相撲11月場所5日目が始まった。そうなると貞雄はテレビにかぶり付いた。昨晩、大喧嘩の原因となった輪島、北の湖戦は輪島が黄金の左腕を如何なく発揮して堂々たる横綱相撲を取り、北の湖を圧勝した。「輪島、強し」と、テレビの解説者が絶賛する声を聞いて貞雄は上機嫌だった。
明日に続く
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